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【小説】猫耳メイドのお仕事 5
「あなたの名前を教えて」
鈴のような少女の声が、我々の最初の記憶となる。この世に生まれ落ちたその瞬間、我々はその名でもって世界に縛られる。
「前世」というものがある。「前世」では、本来の魂と、未熟な「管理者」としての魂をもって生まれ、一生をかけて自らの魂を喰わせながら「管理者」の魂を育てる。魂が育ち切ると、それまでの名も生活も記憶も全て塗りつぶされ、新しい存在として魂が更新される。そうして生まれるのが「管理者」である。
そう噂する者がいる。
しかし、それを実際に確かめる者はいない。噂話に興じた次の瞬間には、皆不思議と興味を失ってしまうからだ。我々には管理者の使命があり、やるべきことも山ほどある。娯楽、話のネタとして多少興味を惹かれたとしても、記憶にない「前世」を本気で追い求める暇はない。元の自分が暮らしたかもしれない世界の候補は無数にある。それを、手がかりがほとんどない中で見つけ出し、更には元の自分をよく知る者と接触して記憶を取り戻す可能性はほとんどない。元より、「管理者」となる際に、「前世」の痕跡は全てなくなるとも言われている。
では、偶然、その「前世」に辿り着いてしまったらどうなるのか。
偶然、「管理者」の任務としてその世界に赴き、偶然、その世界が破壊対象となり、偶然、自ら手にかけた者が、何らかの方法で奇跡的に「前世の記憶」を保持しており、偶然、解放されたその魂から記憶を得てしまったら。
取り戻した記憶の中にある愛する者の姿と、たった今この手で生を終えた者の姿が重なる。これまでの罪と、自らの歪な生誕を知る。奥底に眠る、失われたはずの魂が目覚める。突然バランスを崩した魂は、その身と精神を焼き切るほどの苦痛を主に与える。混乱の中で暴発する神聖が、個々の神聖域を超えて世界を侵食する。わずかに残る管理者としての使命が、それを押しとどめようとする。
「アンリ様!」
私を呼ぶ声に応えられない。なぜならそれは、『僕』の名前ではないから。
私を中心に暗闇が広がる。どす黒く、汚らしく、禍々しい黒。
私を取り押さえようとした者たちが恐怖に表情を歪ませ、まるで醜く恐ろしい化け物でも見たかのように怯え震える。
苦しみもがいて手を伸ばす先には、愛する者の抜け殻。
壊れてしまったんだ。何もかも。
在り方を否定されて、なくしちゃいけない大切なものは既に失われていて。
私が、奪って——。
「なんて、愚かな物語」
鎖の切れる音を聞いた。生まれた時から待ち望んだ瞬間だったのに、今はこんなにも空しい。
黒の奔流の中、切れたばかりの鎖をたどり、優しく手を差し伸べる真白の者がいる。
「可哀想な子。苦しかったでしょ」
その子が通る道は全て白に浄化される。その子は白そのもの。私達の世界そのもの。血や泥にまみれて、見る影もない姿の私ですら温かく包み込むようにその手で抱き寄せる。
「もう大丈夫。一緒に帰りましょう。あなたの生きるべき場所へ」
それは呪いの言葉なのに、私の魂が縋ってしまう。
「ねぇ、あなたの名前を教えて。私があげたあなたの名前」
鈴のような少女の声が言う。朽ちかけた鎖が、細い紐で繋がれていくのをどこかほっとした気持ちで眺めた。
気づけば黒い嵐は収まっていて、数名の管理者に抑えられていた。赤髪の愛弟子は泣きながら駆け寄り、汚れたこの手をとる。
ぼんやりした頭で視界に映る景色に白を探すが、少女の姿はどこにもなかった。
まるで全てが夢であったかのような不思議な感覚だ。
「アンリ様……よかった。本当によかった。このまま、消えてしまうかと」
普段気丈な彼女が大粒の涙を流している姿を眺めていると、少しずつ頭の中に漂う霧が晴れていく。
「アリス。この世界は、どうなったの?」
私が声を発したことに彼女は少しほっとした表情を浮かべた後、涙をぐいと手で拭うと、いつもの生真面目な弟子の顔に戻った。
「全て滞りなく。スターチス塔の部隊が後処理を始めています。我々の仕事は終わりです。さぁ、帰りましょう……シエルへ」
アリスに支えられてまだ自由の利かない体を起こす。気丈に振舞ってはいるが、私を支える彼女の手は震えていた。アリス以外の者達は、我々を遠巻きに見ている。その瞳に浮かぶのは戸惑いと恐怖だ。
視界の隅に黒が映る。この現象を知っている。昔に記録で見たことがあるのだ。
これからどうなるのかは、今は考えられない。
黒の先に見える荒廃する世界と、地面に転がった魂の抜け殻。
陽炎のように浮かび上がる景色がある。
木造の二階建ての古い家に、小さくて賑やかな足音が響く。ウッドデッキから飛び出して、小さな庭を駆け回る。母親譲りの艶やかな黒髪がふわふわと風に揺れている。僕は書き物をしていた手を止めて、隣に立つ愛する女性と微笑みあう。少女の無邪気な笑い声に、母親の呼び声が重なる。
「ノア」
血と埃に塗れた黒髪が、静かに風に揺れていた。