【掌編】白の旋律
私があの日見た少女は、それはそれは綺麗な人でした。
車窓からは海が見えました。家と病院との往復に使ういつも通りのくたびれた電車。その一両目、一番前の優先席。私は何時も、そこに座るのです。
海は変わらずきらきらと輝いて、夏休み前の残り僅かな静けさを満喫しています。小さな漁船が一艘、鳥たちを引き連れるようにして光の帯をかき分けかき分け。鳥たちの白は、海にそびえる巨大な雲に時折溶け込みました。
私は一つ息を吐きます。まるで魂の一部をそっと切り離すように。何かに向けての準備のように。
車掌のアナウンスが次の駅を知らせ、ほんの少し意識を傾ける。もう一度アナウンスが聞こえたら、私は降りなければなりません。
海に臨んだまま、電車はゆっくりと減速します。駅名が書かれた看板があるだけの小さなホームが、私と海とを僅かに引き離すのでした。すると、電車が悲鳴を上げます。こちらまで胸が痛むような悲痛な叫び。ですがそのあとは、安堵に大きく息を吐くように、扉を開くのでした。
海の香りと音が、外と内とを繋げる。
内の世界はどこまでも静かで、外の世界はただ海の音のみが支配する、大きな潮の帝国。
私はふと、扉に目を向けました。
そのとき何を思ってそうしたのかは思い出せません。私は普段ずっと、車窓から外の景色を眺めているばかりで、世界の内と外の出入りなど、気にも留めていなかったというのに。
ですが、そのとき私は、そうしなければならなかったのだと、今は思います。
そうです。あの少女に会うためでした。
潮の香を引き連れて、外の世界から、一人の少女がやってきたのです。
飾り気のない白のワンピースと、白の帽子。ワンピースの裾から覗く肌までもが白く、ただ肩口に下ろされた真っ直ぐな黒髪と、淡い薄紅の唇だけが色をもつようでした。
私はその少女を知りません。
ですが、少女は私を見ました。
茶色がかったその瞳(それは少女がもつ色の一つ)は、まるで私以外を映してはいないのです。
私はあなたを知っている。
少女の目はそう言っているようでした。
少女の背で扉が静かに閉じていきました。潮の香も途絶え、内側の世界は、また外側から切り離されて、人々を閉じ込めるのです。その中で、少女はまるで救世主のようでした。
この世界で唯一、その少女だけが、外の世界と繋がっている。
「おばあさん、隣に良いかしら」
赤い唇からは、涼やかな声。彩るのは総てを救う微笑み。
「ええ、ええ、どうぞ」
私は迷わず隣の席に少女を招き入れました。少女がふわりと腰を下ろした時、とても優しい香りが私を包んだのを覚えています。
あれは何の香だったのでしょうか。
命を育む深海の香でしょうか。
それとも、太陽の香でしょうか。
「貴女はこの辺りに住んでいるの?」
暫く車窓から少女と外を眺めていましたが、私は少女に話しかけずにはいられませんでした。
少女は私の問いに頭を振りました。
「いいえ。もっと遠くに」
「あら、じゃあ、今日は何処かへお出かけに?」
「あなたと同じ所へ」
まあ、なんて不思議で素敵な子。
私の心は弾みました。
でも、私と同じところなんて。
「貴女も病院に?お若いのにどこか悪いの?」
すると、少女は少し困ったような顔をして、
「私も貴女も病院へは行かないの」
と。
電車のアナウンスが聞こえます。
降りなければ。
ですが、誰も降りる準備をしていないのです。
少し周りを見渡せば、皆、石像になったかのようにじっと座ったままでした。
「私達はこの先には進めないの」
少女の聲が、心に響くようでした。
「世界はもう、終わってしまうから」
私は少女の瞳を覗き込みました。
今この子は何を言ったのかしら。
涼やかな聲。心の奥まで染み渡るような。
「貴女は、降りなくて良いのよ」
少女の微笑みは、私の中を浄化しました。
「そう。そうなのね」
世界が終わる。なんて良い響き。
この少女は、それを伝えにやってきたのね。
俄には信じられない話。ですが、今この時を表すに相応しい言葉のようでした。
私は、この事を知っていたのかしら。
今日が、世界が終わる日だということを。
ふとそんなことを思ったのです。
前にも…確か…と。
外の世界では、再び海と私をほんの少し引き離して、電車が駅に着きました。
ですが、あの叫びは聞こえないのです。
アナウンスも聞こえないのです。
皆が静かに、何かを待っていました。
「見て、ほら」
少女が、窓の外を指差しました。
その先は、私の大好きな海。
真っ青で、キラキラと輝いて。
そして、
「まぁ、これは」
いったいいつぶりでしょうか。私の胸は高鳴りました。
海が空へと堕ちているのです。
地平線の彼方、緩やかな曲線を描くその先で。
海は空へ、空は海へと。
「綺麗」
そう言うのが精一杯でした。
少女の微笑みの隣で、私も若返ったように、目を輝かせて。
壁に飾り、長年愛でてきたジグソーパズルが、何かの拍子にがらがらと崩れていく。そんなイメージでしょうか。
何処か切ないのです。
ですが、ジグソーパズルをもう一度楽しむのも悪くない。そんな気分でした。
こんな綺麗なものを、また見られるなんて。
「これでまた、世界が終わる」
少女の、僅かに歓びを称えた聲。
「そして、繰り返すの」
零れる空と海は、此方へと迫ってきていました。
「永遠に、永遠に!」
少女の聲は、高らかに世界を震わせました。
「永遠に」
私もぽつりと繰り返します。
「ねぇ、あなた。前にも会ったことがあるかしら」
無意識に近い、静かな問い掛けに、少女はふわりと振り向きました。
「えぇ、そうよ」
迷いの無い答え。
やはり、という思い。
「前には、いつ?」
「今日と同じ日、同じ時に」
少女の背で、浜辺の船が、空へと舞いました。
もう、そこまで来ている。
音は、無いのね。
「私たちは、また会えるのかしら」
静かに、閉じていく世界。
「何度でも」
そして、繰り返す世界。
「この世界が在る限り?」
「この世界は永遠に在るわ」
少女の瞳が、冷たく光りました。
あぁ、そんな顔はしてほしくなかったのに。
「私たちがこの電車から降りることは無いのかしら」
「どういうこと?」
冷たい瞳が、今度は驚きに変わりました。
あら、どうして?
もしこれまでも繰り返してきたのなら、そろそろ良いじゃない。
私は少女に優しく微笑みました。
「この駅の近くに、小さな喫茶店があるのよ。とても美味しいコーヒーを出してくれるの」
少女の瞳に、今度は恐怖が宿ったようでした。
駅のホームが、閉じていきます。
もう、お仕舞い。
「あなたと一度、コーヒーを飲みながら、ゆっくりお話がしたいわ」
少女の頬に伸ばした手は、届く前に、消えてしまいました。
「やめて」
可哀想なほどに怯えた聲。
少女を残して閉じる世界。
「ひとりぼっちは、寂しいでしょ」
果たして、この言葉はあの少女に届いたでしょうか。
聞こえていたでしょうか。
言葉を発した瞬間に、体がふわりと浮くような心地がしたのです。
私も、世界と共に閉じてしまったのでしょう。
少女を残して。
そこから先は、あまりよく覚えていないのです。
心地よく眠っている時間は、そう長くは無かったような気がします。
私は、もう一度生まれ直さなければなりませんでした。
父と母の元に生まれ、戦争を知り、夫と出会い、息子と娘を産み、育て、楽しい毎日を送り、年をとり、そして、あの電車に乗りました。
目の前に広がるのは、夏休み前の静かな海。
あの日の海です。
私はあの少女に出会わなければならない。
そして、世界を進めるのです。
気付いた者がどれ程いるでしょう。
気付いたことは幸福なことでしょうか。
それはまだ、分かりません。
できることならば…
「おばあさん、隣にいいかしら」
「えぇ、どうぞ」
これが正しい道であるように。
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