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「おくのほそ道」を逆に辿りながら詠んだ俳句たち(立石寺~平泉~松島)

普段、短歌を詠んでいる。

俳句も始めたいと思いつつも、いまひとつ作れずにいる。しかし、さすがに俳聖 芭蕉の足跡を歩くなら、下手な俳句も捻らないといけないだろう。詠んだ句をさらしておく。初日の立石寺に始まり、おくのほそ道とは逆にたどった三日間に詠んだもの。

旅の前(東京森下の芭蕉記念館にて)

芭蕉の予習のために、旅の前の週末、庵のあったという、東京森下の芭蕉記念館に立ち寄った。

草の戸も住み住替る代ぞひなの家

面八句を庵の柱に懸置。

(千住旅立ち 元禄二年三月二十七日)
彌生も末の七日、明ぼのゝ空朧々として、月は在明にて光おさまれる物から、不二の峰幽かにみえて、上野・谷中の花の梢、又いつかはと心ぼそし。むつましきかぎりは宵よりつどひて、舟に乗て送る。千じゆと云所にて船をあがれば、前途三千里のおもひ胸にふさがりて、幻のちまたに離別の涙をそゝぐ。

(現代語訳)
これを発句として、初折の八句を庵の柱に掛けておいた。

(千住旅立ち:元禄二年三月二十七日)
今日、陰暦三月二十七日、あけぼのの空は春霞にかすみ、有明の月はすでに光を失って、富士の峰がうっすらと見えてきた。上野や谷中の桜の花には、まだ再び相まみえることができるだろうかと、ふと不安が心をよぎる。親しい人々はみな前夜からやってきて、共に舟に乗って見送ってくれる。千住というところで舟をあがると、前途三千里の遥かな旅路が胸に迫って、夢まぼろしの世とはいいながら、別離の悲しみに、涙が止まらない。

『「奥の細道」を旅する』©2011 KKベストセラーズ

行春や鳥啼魚の目は泪

是を矢立の初として、行道なをすゝまず。人々は途中に立ならびて、後かげのみゆる迄はと、見送なるべし。

(現代語訳)
この句を旅の最初の吟とはしたものの、後ろ髪を引かれて足が前に進まない。見送りの人々は道の真ん中に立って、後ろ姿がみえなくなるまで、見送ってくれた

『「奥の細道」を旅する』©2011 KKベストセラーズ

炎昼にトイレ求めて芭蕉庵

立石寺

(立石寺 元禄二年五月二十七日)
山形領に立石寺と云山寺あり。慈覚大師の開基にして、殊清閑の地也。一見すべきよし、人々のすゝむるに依て、尾花沢よりとつて返し、其間七里ばかり也。日いまだ暮ず。麓の坊に宿かり置て、山上の堂にのぼる。岩に巌を重て山とし、松栢年旧、土石老て苔滑に、岩上の院々扉を閉て、物の音きこえず。岸をめぐり、岩を這て、仏閣を拝し、佳景寂寞として心すみ行のみおぼゆ。

閑さや岩にしみ入蝉の声

(現代語訳)
山形領に立石寺という山寺がある。慈覚大師の開基で、俗世間から隔たった、静かな寺である。一見するように人々が勧めるので、尾花沢から取って返してここを訪れた。その間、約三十キロほど。到着後、まだ陽が残っていたので、麓の坊に宿を借りておいて、山上の御堂に上った。
岩に巌を重ねて山となしたというほどの岩山で、松栢(しょうはく)は年齢を重ね、土石も古く苔は滑らか。岩上の観明院・性相院など十二院は扉を閉じて、物音一つしない。崖をめぐり、岩を這って、仏閣を拝む。その景は静寂にして、心のすみわたるのをおぼえる。

『「奥の細道」を旅する』©2011 KKベストセラーズ

昼に飲んだ出羽桜で、山道がつらい…

立石寺 シャツに沁みいる酒の汗

仁王門シャツの脇汗臭うもん

中尊寺(平泉)

(平泉 元禄二年五月十三日)
三代の栄耀一睡の中にして、大門の跡は一里こなたに有。秀衡が跡は田野に成て、金鶏山のみ形を残す。先高館にのぼれば、北上川南部より流るゝ大河也。衣川は和泉が城をめぐりて、高館の下にて大河に落入。泰衡等が旧跡は、衣が関を隔て、南部口をさし堅め、夷をふせぐとみえたり。偖も義臣すぐつて此城にこもり、功名一時の叢となる。「国破れて山河あり、城春にして草青みたり」と、笠打敷て、時のうつるまで泪を落し侍りぬ。

夏草や兵どもが夢の跡
卯の花に兼房みゆる白毛かな 曾良


(現代語訳)
奥州藤原三代の反映も邯鄲の夢と同じ、一炊の間に消え去った。南大門の跡は(伽羅の御所などからは)四キロほど手前にあった。秀衡の館跡は今は田畑になって、金鶏山だけが昔の形をとどめている。
まず、義経の居館であった高館に上って、見れば北上川は南部から流れてくる大河である。衣川は和泉三郎の城を取り巻いて、高館の下で北上川と合流する。泰衡等の居城は、衣が関を楯として、南部からの侵入を防ぐ目的であったことが分かる。
弁慶や兼房など選りすぐりの義臣、この城に立てこもって戦ったものの、その功名も一時の夢と消え、すべては夏草の中に埋もれて果てた。まさに、「国破れて山河あり、城春にして草木深し」。旅笠を脇に置いて、草むらに腰を下ろし、長いこと涙を落としたことだった。

『「奥の細道」を旅する』©2011 KKベストセラーズ

兼て耳驚したる二堂開帳す。経堂は三将の像をのこし、光堂は三代の棺を納め、三尊の仏を安置す。七宝散うせて、珠の扉風にやぶれ、金の柱霜雪に朽て、既退廃空虚の叢と成べきを、四面新に囲て、甍を覆て風雨を凌。暫時千歳の記念とはなれり。

五月雨の降のこしてや光堂

(現代語訳)
かねてその美しさについて聞き、驚いてもいた中尊寺の光堂と経堂を拝観することができた。経堂には清衡・基衡・秀衡の三人の像を納め、光堂にはこの三人の棺と共に阿弥陀三尊像が安置されている。金・瑠璃・珊瑚等々の七宝は消え失せ、珠玉を散りばめた扉は風に破れ、金の柱は朽ち果てて、すべてが退廃し空虚となるはずだったが、四方を新しく囲み、屋根を覆って雨風を凌いだので、これによって、ようやく千年は残る記念物となったのである。

『「奥の細道」を旅する』©2011 KKベストセラーズ

秋の朝和式トイレで立てません

駐車場に隣接するトイレで、久々に和式トイレを見た。清潔であれば、便器に触れなくて済むので私は嫌ではない。が、久々にしゃがんだまではよかったが、用を済ませ、立ち上がろうとしたが自力で立てず、壁の取っ手を握る始末。

秋雨に釈迦にさらした宿酔(ふつかよい)

前日に、日本酒をしこたま飲んだせいで、この日の山中も酒が残った状態。本堂で釈迦如来に手を合わせるもまだ酩酊状態。

秋雨の降り続いてる光堂

この旅ではずっと雨。妻も嫌気がさした様子。芭蕉も雨だったよ、と。もとは芭蕉の「五月雨を降り残してや光堂」ですね。詠んだというより、ただのパクリ。

無量光院跡(平泉)

水鳥の遊ぶ光院秋気澄む

中尊寺から下りて来て、まだ仙台に変えるバスまでの時間があったので立ち寄った。秀衡が京都の平等院を模して作った無量光院があった場所。実際に建物はない。何もない。池に水が張ってあって、水鳥が元気に遊んでいた。

松島

(松島・元禄二年五月九日・十日)
抑ことふりにたれど、松島は扶桑第一の好風にして、凡洞庭・西湖を恥ず。東南より海を入て、江の中三里、浙江の潮をたゝふ。島々の数を尽して、欹ものは天を指ゝふすものは波に匍匐。あるは二重にかさなり、三重に畳みて、左にわかれ、右につらなる。負るあり抱るあり、児孫愛すがごとし。松の緑こまやかに、枝葉汐風に吹たはめて、屈曲をのづからためたるがごとし。其気色窅然として、美人の顔を粧ふ。ちはや振神のむかし、大山ずみのなせるわざにや。造化の天工、いづれの人か筆をふるひ詞を尽さむ。
雄島は磯が地つゞきて海に出たる島也。雲居禅師の別室の跡、坐禅石など有。将、松の木陰に世をいとふ人も稀々見え侍りて、落穂・松笠など打けふりたる草の菴閑に住なし、いかなる人とはしられずながら、先なつかしく立寄ほどに、月海にうつりて、昼のながめ又あらたむ。江上に帰りて宿を求れば、窓をひらき二階を作て、風雲の中に旅寐するこそ、あやしきまで妙なる心地はせらるれ。

松島や鶴に身をかれほとゝぎす 曾良

(現代語訳)
そもそも言い古されたことだが、松島は日本第一の風光にして、およそ中国の洞庭湖・西湖にも劣らない。東南の方角から海が入り込んでいて、入り江の長さは十二キロ。そこに浙江の潮を満たす。ありとあらゆる形をした島々とここに集め、そびえ立つものは天に向かって指をさし、臥すものは波にはらばう。あるものは二重に、またあるものは三重に重なって、左に分岐するもの、右に連続するもの。背に負うものがあるかと思えば、膝に抱いた姿のものがある。まるで幼子をいとおしんでいるようだ。松の葉の緑は濃く、枝は海風に吹かれてたわみ、その枝ぶりは人が整枝したようにさえ見える。その幽遠な美は、そのまま美しい女がよそおった姿に同じ。ちはやぶる神代の昔、大山神の一大事業だったのである。この天地創造の天工の業を、人間誰が筆に描き、言葉に尽くせるであろうか。雄島が磯は地続きで海に突き出た島。そこに雲居禅師の禅堂跡があり、座禅石などがある。また松の木の下には、今も浮世を逃れて隠れ住む人などもまれに見えて、松葉や松笠などを燃やす煙が立ち上って、静かな草庵の佇まいがある。どんな人が住んでいるのだろうと、なつかしいような気持ちで近寄って見ると、月は水面に映り、昼の眺めとはまた違った風景が現出する。入り江に近いところに宿を取り、二階建ての開けた窓から見る眺めは、まさに白雲の中に旅寝するに等しいさまであり、これ以上の絶妙の気分はまたとない。

『「奥の細道」を旅する』©2011 KKベストセラーズ

予は口をとぢて眠らんとしていねられず。旧庵をわかるゝ時、素堂、松島の詩あり。原安適、松がうらしまの和歌を贈らる。袋を解て、こよひの友とす。且、杉風・濁子が発句あり。
十一日、瑞巌寺に詣。当寺三十二世の昔、真壁の平四郎出家して入唐、帰朝の後開山す。其後に、雲居禅師の徳化に依て、七堂甍改りて、金壁荘厳光を輝、仏土成就の大伽藍とはなれりける。彼見仏聖の寺はいづくにやとしたはる。

(現代語訳)
私は句作を断念して、眠ろうとするが眠れない。江戸の旧庵を出るとき、友人素堂は「松島の詩」をくれた。原安適は「松がうらしま」の和歌を贈ってくれた。これらを袋から取り出して、今夜の友とする。また門弟の杉風や濁子の発句もあった。
五月十一日、瑞巌寺に参詣。この寺の三十二世、真壁平四郎は出家して宋に留学し、帰国の後にこの寺を臨済宗寺院として再興した。その後、雲居禅師のの教化によって、七堂伽藍も改築され、寺内は荘厳に輝き、文字通り西方浄土を具現した大伽藍となったのである。かの見仏聖の寺は何処にあったのだろうかと偲ばれる。

『「奥の細道」を旅する』©2011 KKベストセラーズ

多くの人が芭蕉の句と思っている「松島や ああ松島や 松島や」は芭蕉の句ではない。松島で芭蕉が句を詠まなかったという事実と、松島の美しさを表現するのに、狂歌師、田原坊(江戸時代後期)が詠んだ「松島や さて松島や 松島や」を併記したことが、後世に芭蕉が詠んだとされる誤解のもとになったらしい。「さて」がいつの間にか「ああ」に変化。

ほら、詠まないからこんな誤解をされるのよ!

俳句ではないが、短歌を詠んだ。

句が詠めぬほどの絶景か松島は 芭蕉のサボり説を疑う

瑞巌寺

とても見どころの多い場所。伊達家との関係が強く、伊達家に関わるものが多い。展示物以外にも、備え付けられていた、屏風、建物の内部の作りにも見るべきものが多い。時間がなかったので、1時間ほどで離脱。

円光院

瑞巌寺の隣の円光院。こちらは武田信玄にゆかりのある寺院。展示等は少ないが、木々に見るべき景色が多い。紅葉の時期はさぞ美しかろうと思う。こちらも後の松島の遊覧船の時間が迫っていたこともあり、駆け足で見て回る。

松島(雄島)

最初に海岸に出て見た松島は、「いい景色だけど、言うほど絶景か?」と思った。しかし、海岸に沿ってたどりつく雄島(おしま)に行って考えが変わった。どこを切り取ってもいい景色じゃないか! 景色もそうだが、雄島の何でもない石でも味がある。

絶景を詠まぬ芭蕉にちっち蝉

なぜ、どこを切り取ってもいい絶景があるのに、芭蕉は詠まなかったのか。芭蕉が詠んだ松島の句を見たかった。私の不満の声を「ちっち」という音に寄せて詠んでみた。

木、岩、海 雄島の秋は完なる絵

木の枝、岩、海という少ない構成要素だけで、どこを切り取っても絵になった雄島…、を無理やり詠んでみた。誰もが感じる絶景をどう詠んだものだろう。

※もっと多くの雄島の写真はこちら(↓)

感想

実際には、帰ってきてから詠んだものもあるが、現在、今回の旅で、8つの句を詠んだことになる(他、旅の前に一句、短歌一首)。景色を見ながら、人の旅をなぞりながら。こういう旅の楽しみ方もあっていいだろう。いい旅でした。

旅の前(森下の芭蕉記念館)

  • 炎昼にトイレ求めて芭蕉庵

1日目:立石寺

  • 立石寺 シャツに沁みいる酒の汗

  • 仁王門シャツの脇汗臭うもん

2日目:平泉

  • 秋の朝和式トイレで立てません

  • 秋雨に釈迦にさらした宿酔

  • 秋雨の降り続いてる光堂

  • 水鳥の遊ぶ光院秋気澄む

3日目:松島

  • 絶景を詠まぬ芭蕉にちっち蝉

  • 木、岩、海 雄島の秋は完なる絵

  • (短歌)句が詠めぬほどの絶景か松島は 芭蕉のサボり説を疑う

※3日間の食事はこちら(↓)


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のーどみたかひろ
いい歌を詠むため、歌の肥やしにいたします。 「スキ」「フォロー」「サポート」時のお礼メッセージでも一部、歌を詠んでいます。