あなたは死ぬときに何を遺して死にますか?
「後世への最大遺物」
明治27年7月、箱根のキリスト教徒第六夏期学校において内村鑑三が学生たちに話した講演録だ。「後世への最大遺物」は、その講演テーマとなっている。内村鑑三が学生に向けて、あなたが未来に残すべきものは何かを語ってくれている。
だいぶ古い本だし、この本に興味を持っている人は概要はご存じだろう。
ネタばれを気にせず、感じたことを書き散らかそうと思う。内村鑑三のことは、この講演録以外には知らない。もちろん、歴史の教科書に出てきた明治日本の代表的なキリスト教思想家というくらいは知っているが、それだけだ。
このテーマ、未来に何を残すべきか。人生について考えたことがあるなら、ちょっとは死んだ後に自分が何を残すかを考えたことがある人は多いだろう。
内村鑑三も、普通の向上心のある若者だったときに、名を残すようなことを考えたらしいが、キリスト教に接することになったあと、この考えがいいものかどうか、わからなくなった。
そして、悩んだ末に、彼は一つの考えに行きつく。
そう、生まれたときより、少しでも世の中をよくして死ぬために、何ができるか、何を遺すべきか? と本題に入る。
答えを言ってしまうと、それは第一に「金」だろうと。
「金」が好きな人も、もうわかったよ、というくらいしつこく、「金」のことを内村鑑三先生はおっしゃる。やっぱり金のことを言うのは賤しいのは、この時代も同じだ。
でも、弱者を助ける時にも、実際、金がいる。
アメリカの偉人を例に、金がないとあんな孤児院も作れなかった、と。
その金の特徴もよくご存じだ。その通りだと思う。
でも、みんながみんな金を遺せないことも、内村鑑三先生はご存じだ。金が残せないなら、何を残すか。それは「事業」だという。
わかりやすい例では、土木事業で、人に役立つインフラを作る。治水する。そうして、人の憂いを取り除く。
でも、あなた「事業」も無理でしょ?
と、内村鑑三先生は、また痛いところをついてくる。
私個人も以前、事業を立ち上げたいと思って失敗した身。さて、ここからの話は私も身にも、参考になるはずだ。
では事業も残せないあなたは何を残せばいいか?
今は、noteでも気軽に考えを残すこともできる。でも、本当にそれが人類や地球に役立つ思想かどうかといえば、わからない。しっかり考えて、時間をおいて、また練り直し、共有した内容に対する批判にも受け入れて、耐えて、それを形にしないといけないだろう。手間と忍耐のいることだと思う。「新約聖書」や頼山陽の「日本外史」を例に出されると参ってしまうけれど、一遍の詩、文学にもその価値を認めている。なるほど、もしかすると、ちょっと先の私にも、何か未来への小さい貢献はできるかもしれない。
そして、青年を薫陶するという教育事業。
私は教師ではないけれど、別居している息子が一人いる。思想を持てば、それを伝えることができる可能性が高い。もちろん、押し付ける気はさらさらないけれど、お父さんの考えはね~、という話くらいは許されるんじゃないだろうか。
幸い、私は、まだここに望みをいだいていられる。
でも、文学者にも、教師にも、それには適正があるという… それももっともな話だ。
でも皆さん、大丈夫。まだ続きがあります!
(中略)
金もない、事業もできない、でも失望することはない。
何かをなそうとした貧しい人が、高尚な意思によって、たった一つの教会を作ったと聞くだけで、勇気をもらえる人がいるだろう。
事業よりも生き方だと。
その生き方を知った人がインスピレーションを感じることが、最大遺物と呼んでいいのではないだろうか、と内村鑑三先生はおっしゃる。
いやー… 大変だ。
正直、金という遺物を遺して、ちょっとけしからぬ時間を過ごして死んでいきたい… という気持ちが四十歳台後半になってもまだまだ心の中にある。
でも確かに金も事業も遺せないのであれば、もうそこを目指すしかないかもしれない。次の世代を生まれてた時代より、良くしようという心をもって。
きっと、「思想」を遺すこと、思想を通じて事業を起こしてもらうことを諦めたとき、またこの本に戻ってくるだろう。そのときにいきなり高尚たって無理だ。次の世代をよくするためにできることは、今よりもうちょっと考えよう。きっとまたお世話になるからね。
内村鑑三先生、ありがとうございます。
そして、この本を紹介してくれた有賀薫さん、ありがとうございました。