【短編小説】桜の樹の下で 第12章(最終章)
第12章 桜の樹の下で
「ねぇ、千鳥ケ淵に行ったらボートに乗りたいな」
「久しぶりだな。桜が咲いていればボートから見えるよな。カメラある?ボートからの景色を撮りたいよな」
亜紀が笑い出す。そしてジーバンの右後ろポケットからスマホを取り出し、僕の目の前でちらつかせた。
「今は全てこれよ。時間もわかるし、ナビにもなるし、写真も動画も撮れるし、たくちゃんとも話せるし」
そう言いながら、さっき学士会館で撮影した2人の写真を見せた。そしてその場で写真を僕のスマホに送ってきた。
確かにスマホがあれば、ほとんど必要なことはできる。そう思いながら亜紀が送ってきた写真を見ていた。亜紀はこの写真を家族に見られても大丈夫なのか、あとで削除するからその前に僕に送ってきたのか。知りたい、もっと亜紀のことを。学生時代はなんでも知っていたと思っていたのに、今は何もわからない。
「たくちゃん、また何か考えているね。もうー」
亜紀は頬を膨らますように僕に顔を近づけながら話しかけてきた。
「たくちゃん、もう九段下の駅よ。この辺りもよくきたね。もう堀が見えてくるよ。もうすぐよ」
亜紀は楽しそうだ。僕も楽しいが、時間が経つに連れ、このままでいいのかと心のどこかでブレーキをかけるもう一人の僕がいた。このまま一緒にどこかに行ってしまいたい。でもそれは無理なこと。
「たくちゃん、ねー、たくちゃん」
「あ、ごめん」
「もう少しよ。学生の時より歩くのが遅くなったの?」
無邪気に笑う亜紀。また会えるかわからない、もしかしたら2度と会えないかもしれない。だから亜紀は明るく振る舞っているのか。僕の悪いくせだ。1人で考え、1人で悩んでいる。それに比べていつも亜紀は明るい。そんな亜紀に惹かれたんだ。
亜紀はスマホを取り出した。メモ帳のような画面を開き僕に話し出した。
「たくちゃん、こんな歌詞、知っている? 少しだけ読むよ。この前、ユーチューブで聞いた曲なんだけど、この歌詞を読んだら、学生時代に戻れる気がして何度も聞いていたの。聞いてね」
そういうと、スマホを見ながら歌詞を読み出した。僕たちはもう学生時代に戻っている。でも、それでいいのか。自問自答しながら亜紀の読み上げる歌詞を聞いた。
若すぎるから遠すぎるから
会えなから会いたくなるのは必然
九段下の駅をおりて
坂道を人の流れ追い越して行けば
千鳥ケ淵 月の水面 振り向けば
亜紀はこの歌の歌詞をゆっくりと読んでいたが途中でやめた。
後半は涙声になってしまったのだ。
僕も聞いたことがある歌だ。
でも亜紀と歩いた場所がこの歌の中にあることを意識して聞いたことがなかった。
「たくちゃん、爆風スランプという人たちの『大きな玉ねぎの下で』という歌よ。少し前の曲だけどね。私、偶然聞いたんだけど、とっても好きな歌になったの」
歩きながらも会話が止まった。亜紀はスマホを触っている。小さな音が聞こえてきた。
ユーチューブで「大きな玉ねぎの下で」の曲を僕に聞かせようとしたのだ。
自然と僕たちは手を繋いでいた。
そうだ、こうして九段下駅から千鳥ケ淵まで歩いたこともあった。
この東京での生活の1つひとつが亜紀との思い出で溢れていた。
でも、戻ることができない思い出。
そう、時が経ち過ぎたのだ。
あの時には戻ることができないんだ。
切なくなる自分の心に気づかれないように空を見つめていた。
「ねぇ、見て。少し桜が咲いている。秋田とはやっぱり咲く時期が違うね。絶対ボートに乗ろうね」
亜紀が僕の手を強く引いた。亜紀のはしゃぎっぷりが僕の手を引く力でもわかる。
千鳥ケ淵でボートに乗るのは、大学を卒業して以来だ。
いや、亜紀と一緒に乗ってから一度もボートには乗っていなかった。
学生時代、僕がオールを持ってボートを漕ぐと亜紀は「右、左」と進む方向を大きな声で叫んでいた。
まっすぐ進んでいても亜紀は見たい景色があるとその場所へ行かせるのだった。
「今日もたくちゃんが漕いでね」
笑いながら話す亜紀。でもやっぱり目が笑っていない。ずっと気になっている。
「ねぇねぇ、見て、見て。桜が咲き始めているよ。ほらほら、あそこにも」
狭いボードの上で亜紀は右に左に動き回る。
それも10年前と変わらぬ亜紀。
気がつくと亜紀は、太陽が傾き出した空を見上げていた。
さっきまではしゃいでいたのに、どうしたのかと思うほど真剣な顔をしている。
「たくちゃん、学生時代、このボートの上でいろいろ話をしたよね。誰にも相談できないことも、ここでなら2人だけだからとね。家族のこと、将来のこと、就職のこと、いっぱい話したよね。風に吹かれると人は素直になれるのかな。今、とっても素直な気持ちだよ」
亜紀は何を話そうとしているのか。桜を見上げているようでもあり、遠くの何か見えない物を探しているようでもあった。
亜紀が僕の持っているオールに手をかけた。
その左手薬指には指輪がなかった。
僕は亜紀の右手と手を繋いでいて気づかなかった。
「私も漕ぐから」
亜紀は子供のようなことを言い出した。
亜紀は泣いていたのだ。
空を見上げていると思ったのは涙がこぼれないようにしていたのだ。
亜紀は我慢できずに声を出して泣き出した。
その涙はボートの中にポタポタと落ちるのがわかるほどだった。
僕は何もできずにじっと亜紀を見ていた。
「たくちゃん、ごめんね。泣いちゃったよ。ここでならなんでも話せそう。話してもいい。聞いているだけでいいから。今まで誰にも素直な気持ちで話せなかったから」
亜紀の言葉は途切れ途切れだった、これから亜紀がどんなことを話すのか不安でもあった。
「私、大学を卒業して、徳島に戻って、知り合いの紹介で付き合いだした人がいて、その人は秋田の人だったの。仕事で徳島の会社にきていたの。それで2年後に結婚して……。たくちゃんに連絡を取ろうとも思ったんだよ。でもできなかった」
卒業して2年後に? 学士会館で僕がなぜ亜紀の右に立って写真を取りたいと言ったのかがわかったのは亜紀が結婚した時だったんだ。
そうなんだよ、亜紀。
僕は亜紀と一緒になって結婚式で亜紀の右に立って写真を撮りたかったんだ。卒業して2年後にそのことに気がついたんだね。
亜紀、それからどうしたんだ。今はどうしているんだ。
「たくちゃん、聞くだけでいいよ。ごめんね。私ね、結婚してすぐに彩名が生まれて、でも、夫が会社のお金を使い込んで、蒸発して。夫の実家でも『離婚して、新しい人生を作った方が彩名のためだよ』と言ってくれて。私も夫に愛想がつきちゃって……。お金を使い込んでいた頃、私、彩名の前で毎日のように夫に殴られたり、蹴られたりされてきたの。辛かったよ。何度も泣いたよ。蒸発して数年間は夫の実家にいたけれど、正式に離婚して東京に戻ってきたの。こんな私よ。大学を卒業して10年、人生って変わっちゃうのね」
亜紀の辛かった10年間の人生を知らされた気がした。
ショックだった。
今日1日、亜紀の明るさは辛さの裏返しだったのか。
そう思うと目の前にいる亜紀がいじらしく、愛おしく感じた。
学生時代、お互いに一緒になるかもしれないと思っていたにも関わらず、お互いがお互いのことを気遣い、願いは叶わなかった。
遠距離では辛い思いをさせてしまうという思いがお互いのどこかにあったのだ。
「たくちゃん、ごめんね。たくちゃんは作家を目指しているんだよね。夜行バスであった時、すぐにわかったよ。学生時代からの夢だものね。私、応援する。ずっと応援するから、いいよね」
化粧が落ちるほど顔をぐしゃぐしゃにして泣きながらも、僕の夢を覚えていてくれて、応援するとまで言っている。
もう何も言わないでくれと叫びたい。
僕のことを一番知っていたのは亜紀だ。
10年経ってもそれは変わっていなかった。
ボートは桜の樹の下で止まったままだった。
風が吹いてきた。
まだ蕾のはずの桜の花びらがボートに舞い落ちてきた。
風でボートがぐらっと揺れた。その揺れで亜紀がボートの中でよろめいた。僕は慌てて亜紀を支えた。
その時、亜紀の首から見えたのは、学生時代にたこ焼き屋のバイト代で買った亜紀への誕生日プレゼントのネックレスだった。
僕は忘れない。この地で亜紀と出会ったことを、この地で作ったたくさんの思い出を。
あとがき
学生時代に忘れ物をした。そんな思いが時々、心の奥から頭をもたげる。その忘れ物がなんだったのかは、はっきりと出てこない。でも、学生時代に何かをやり残したことがあることは間違いがない。学生時代を思い出すと心がすっきりとしないのだから。
4年間、ただ大学に通い、仲間と楽しんでいた。授業にはちゃんと出ていた。単位もとってきた。いろいろなところに旅もした。飲んでは議論もした。アルバイトもした。それでも何かの忘れ物がある気がする。そんな思いで書いた小説です。
思い出は、どんなに時が流れても色あせることがなく、その時のまま。そのまま時が止まってそこに佇んでいる。そんな人生の思い出をひとつふたつと拾い上げていきたい。その時々で精いっぱい生きてきたはずなのに。何か忘れている気がしてならない。