柴田元幸さんの講演会にて
とある機会があって、枚方の蔦屋書店で柴田元幸さんのお話を聞くことができた。小説家、翻訳家の谷崎由依さんを聞き手に、柴田さんの自伝、仕事の裏話、朗読と盛りだくさんの内容だった。質疑応答も織り交ぜつつ進む対談は、柴田さんの話し上手も相まって和やかに、時に笑いも起こりながら進んだ。柴田さんの著書の中で、僕は学生時代うまく議論に参加できない学生だったとの一節があり、僕はその印象を強く持っていたためか、小さな声でボソボソ喋るイメージを持っていたのだが、それは大きく裏切られることになった。翻訳家としての印象が強く、文筆をなりわいにしていると考えていたのだが、そこはやはり元大学教授だなと感じた。まあ優秀な人はおしなべて話がうまい。話の核がぶれない。時に脱線し、笑いを誘うこともあるが、脱線した話も滑らかに本筋へと連結する。脱線というよりも、少し寄り道した程度にすぎない。だから何が言いたいのか聞いていてわからなくなることもない。それでいて話に強弱がついていて聴衆を飽きさせることがない。これは話下手な僕が学ぶべきことで、いい実践例を見せてもらった気がする。多くの人の前で話すことがあったら、このエッセンスのようなものを少しばかり見せられたらなと思う。ところで、話が寄り道している。僕の文章は寄り道の連続ないし無秩序の幼稚園のようなものだからそもそもレールがないようにも思えるけれども。ともかく、この講演が面白かったということは繰り返しておく。しかし、やはり大学の講義ではないので内容が体系的にまとめられているわけではなく、総合雑誌的なエッセンスの集積だったので、講演終了二時間後の今ですら何を語っていたかと言われたら首をひねってしまう。そこでなるべき記憶が鮮明なうちにその内容を保存しようと思い、文章をこねりあげることにした。記憶の真空パックとは言わないが、フリーズドライにしてお湯をかけたらすぐ食べられるくらいにはしたいなと思っている。
一番印象に残っているのは、英語力はないが発想力豊かな学生よりも、英語力はあるが型にはまったことしか言えない学生の方が伸びると語っていたことだ。つまらないこと、模範解答どおりの答えを言おうとする学生はつまらない、そのように考えるのが一般的というか、模範解答だと思っていた。社会も(本当は奴隷がほしいのかもしれないが建前として)発想力豊かな人材を求めている素振りをしている。しかし、そのような学生は抑圧されてきたのだと柴田さんは語った。一般的に高学歴とされる学生の多くは、誰か大人の言うがままに行動し、成功を収めてきた。その中で自由な発想は迫害され、無視され、心の奥底で鍵をかけられて人目のつかないところに葬り去られている。それを解放するのが大学という場所なのだ。発想できない、は能力不足というより機会損失といったほうが近いかもしれない。その反面、語学力は純粋に能力値を示す。一般に前者は先天的、後者は後天的と考えられているだろう。もちろんその側面もあるだろうが、その能力を違った角度から眺めることにも大きな意味があるのだ。これは語学学習に嫌気が指している僕には良薬だった。
残り紙面が少なくなってきたので、他にも面白い話がいくつも聞けたのだがそれは後回しにする。しかし、お金を払って聞く話ほど集中できるものも少ない。大学の講義もお金を払っているはずなのになぜかそういった実感がわかず、ボケっとスマホをいじってしまうのは何故だろうか。やはり親のお金は他人のお金として考えているのだろうか。それとも授業は受動的なもの、押し付けられたものとの認識が強いのだろうか。どちらにせよ、話を聞いたあとにひとまとまりの文章を書くことは、その内容をインプットするのに効果的だとの認識を強くした。書くことは思い出すこと、考えることなのだ。