「私が作る教育」のアイデンティティはポスト資本主義×化政文化だった
9月中旬の私は「地方創生」探訪の旅に出かけたが、その記事を書き終えると一息ついていた。
最近の私は、再び教育の構想を練るべく、安宅和人さんの『シン・二ホン』を読み直しつつ、ICCサミットの『STARTUP CATAPULT』の映像を見て、『神山まるごと高専』の記事を片っ端から読み漁っていた。
この人たちが「インダストリア」を牽引するんだろうね、というのが正直な印象だ。同時並行で、AIリテラシーやら統計学やらデジタル人材に必要な最低限度の学習は進めているから「データ×AI」を垣間見た気はしている。
一方で、「サイエンス」については弁理士資格の勉強を齧った20年前から相変わらず理解不能。『日本の研究.comニュース』のTwitterなど拷問レベルで笑える。どちらも人に教えるレベルに今からなることはまず無理だ。
”私にできる教育って何だ”
これまで「かしこさラボ」を書きながら次代の教育を模索していた身としては、知識を深めるほど頭を殴打される感は否めない。わたしはどうか。
普通なら自己肯定感を下げまくって、絶望の闇に落ちていく状況だろう。しかし、安宅さんに「ミドル世代は若者世代の挑戦をサポートし、励まし、金を出し、人をつなぐ、勝海舟的ロールを担うべきだ」などと書かれようが、金も余裕もない私にはむしろ自分でチャレンジするしか道はない。
まあ、私も1000人を超える生徒たちと個別に向き合ってきた経験と自負くらいは持ち合わせている。とはいえ、欲張ったら失敗することは充分に理解できた。そこで、戦略的撤退だ。断捨離だ。やめることからはじめよう。
「捨てない」を決めることにした
そうすれば「捨てる」が決まる
これまで様々な記事で次代の教育に必要な要素を抽出してきたが、そこからさらに厳選して以下の要素を「捨てない」ことにした。これが私の作る教育の「核」となっていくのだろう。
◎捨てない「感情」
◎捨てない「性質・能力」
◎捨てない「産業」
◎捨てない「行動」
暫定的に決めた。日本らしさを残しながら、地方創生とも親和性がある。要素だけ見れば目新しさには欠けるが、ここから先がアイデア勝負の世界だ。デジタル人材育成が加速しても、結果的にはこちらがマジョリティになるというのが長年教育に携わった者としての結論だ。
個人的に興味深いのが、江戸時代後期の化政文化の性質とかなり似ている気がする点だ。経済的な停滞の中から生まれた退廃的な町人文化。まさしく今の日本で私がやりそうなことだ。ここからジャポニズムに火が付くか、倒幕運動に飛び火するか。天候は荒れ模様といったところだ。
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ちなみに「捨てられた項目」には以下のようなものがある。もちろんこれを「絶対しない」というわけではなく、私の作る教育で「追い求めない」という意味だ。資本主義色がガンガンに出ていて面白い。
では、そろそろ事業計画の策定に取り掛かることにしてみるか。
(2022/10/3)
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