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【妄想受験】もし早稲田に佐賀の偏差値50が合格してたら

単なる妄想。91年当時の地方大学生の感覚で懐かしく、俺や友人や周囲にいた人たちを思い出しながら。写真は私の母校の福岡大学、偏差値50。

大学は地元に通うのが普通

1991年、人口18000人の町で生まれ、大卒なんて学校の先生しか周囲に居なかった環境で、私が知っていた東京にある大学ってのは東京大学と早稲田と慶應、上智くらい。もちろん他も聞いたことはあったが、「福岡大学を東京の高校生が認識するレベル=あー、そんな大学、その地方にはあるだろうね」だった。

どうやら早稲田ってのはめちゃくちゃ難しいらしいじゃないですか、と高校にある赤本をパラパラ眺めて認識していた程度。購入する気持ちも小遣いもない。

そんな田舎の高校生が万一間違って当時の早稲田大学商学部に合格してしまったとしたら。

なんで早稲田かというと大隈重信が佐賀出身だったから馴染みがあるという程度。

1991年の2月のある日、合格発表翌日。高校では先生や学友たちからすげーとチヤホヤされただろう。
今では無くなったが、地元佐賀新聞では各大学の合格者指名と高校名が掲載される。
だから朝から自宅の電話は鳴り止まない。
おめでとう、すごいねと受話器を握る母も嬉しそうだ。
それでも地元の国立佐賀大学に通学する方が良いとされるような田舎。
東京の私立大学にいくのは親不孝だ。それでも俺は東京に行く!

さて、下宿を探さねば。
佐賀から出たことがない親と子、高田馬場がどこかもよく知らない。高校まで100mの距離で徒歩通学していた私(当時は偏差値と言うのは佐賀県の高校受験では馴染みがなく、自宅から近い高校に行くのが普通の価値観)だから、電車通学なんてとんでもない。大学近くの高いマンションを望んだだろう。

当時はバブルの終盤。親も羽振りが良かった(後に私の不徳で破産)。お金なんていくらでも回ってくると18歳ながら勘違いしていたバカである。早稲田なんかには死んでも合格しないがこのまま続ける。
私立の高い学費は親が出す、家賃も生活費もそれなりに、と思うバカな頭と時代。

1991年3月後半、期待に胸と鼻を膨らませて佐賀から東京に出発する。きっと新幹線だ。飛行機はお上りさんには辛いから。
故郷に錦を飾ってやる、俺の成功を待ってろ佐賀!という意気込みで出発。

東京到着、一人の部屋で体育座りして呆然とする。
当然だが誰も知り合いがいない。
大丈夫、大学が始まれば素敵な毎日が始まる。

1991年4月入学式、オリエンテーション。
東京の高校や附属高校から来た奴らは楽しそうに情報共有している。
勇気を出してその仲良しグループに声をかけてみる私。
どうした?反応が薄い?なんなら近寄るなオーラを感じる。なんでだ?

1991年、田舎はビーバップなヤンキー文化。ツーブロックは校則で禁止されていたが、そんな軟弱な髪型をした同級生は地元には皆無。
パーマはあったがクルクルしたものではなくビシッとしたアイパー。
アイロンパーマである。

美容室は軟弱、女が行くとこ、と後期九州男児は床屋でヒゲのおっさんからビシッとキメてもらうのがかっこいい。メッシュで紫色も入れちゃった。ポーチョガルの匂いがナイスセンス。

一方東京ではセンター分けサラサラ髪でツーブロック。角刈りが伸びたような俺は異質に映ったことだろう。

洋服は地元の店で買えるもの。シャツに一万円なんて、後に友人からビームスとかシップスに連れて行かれて呆然とする。

佐賀で買ったコーディネートでキャンパスを歩く。バンドマンみたいな格好だがお金はかかっていない(かけられない)。
何がおかしいのかさえも気づかない。

当時、紺ブレとヘインズ赤ラベルTシャツ、リーバイス501にNIKEがよかった。
俺は当然知らない。知っていてもラルフローレンの紺ブレなど買えない。

当時の写真を探したが無い。
当然だ、友達がいないから誰も写真など撮らない。

キョロキョロと物欲しそうな顔した俺に誰も声をかけてくれない。

よし、ならばサークルに入ろう。大学といえばサークルだ。新歓で先輩たちが新入生に声をかける。少し緊張した顔で、けれどゆっくりと歩き、声をかけられるのを待つ俺。目の前を歩く女の子やシュッとした学生に声がかかる。次は俺か、ここならば話聴いても良さそ・・、無視である。チラシさえもらえない。

なぜだ?

講義も誰も教えてくれないから履修がめちゃくちゃ。
よし、大学だから倫理学や統計学なんかの一般教養も履修してみよう。田舎の優等生は無茶をする。結果として履修的に死ぬ。さっぱりわからない。周囲の人たちはなんで理解できるんだろう。

やっぱりまぐれで合格しちゃったからな。東京の人って賢そうだしな。

誰も俺には無関心。声をかける勇気は俺には残されていない。

単位は取れない。友達はいない。学食は仲良しグループに占拠されていて居づらい。こんなに広くて学生が溢れているキャンパスに俺の居場所がない。

よし、だったらアルバイトだ。他の大学の人たちとも友達になれるはず。なんなら恋愛も・・。でも頭悪い女子は嫌だな。青山学院の女子とかおしゃれでいいな。だったらおしゃれな店じゃないとな、ブルーノートとかだったらカッコいいジャン。

なぜか面接に落ち続ける。なんでだ?
履歴書に貼った写真の本人と仏頂面が悪いとは微塵も気づかないまま。
バイトもせず、オフタイムの学食で大盛りご飯を書き込む。ファストフードは主食となる。そしてニキビが出て太る。

1991年7月、前期が終わり、2ヶ月くらいの夏休み。
誰からも飲みに誘われないまま佐賀に帰省。表向きは自動車の免許を取得する、という目的があって仕方なく、というテイ。

親は喜ぶ。
地元の友人と夜中に行くファミレス。
「東京はチョー凄いよ、お前らも佐賀なんかにいないで東京で勝負した方がいいよ」なんてことを言う。「同級生でお嬢様学校出身のメグミともうすぐ付き合う」とか言ったりする。空想の友人たちとの「夜な夜な馬鹿騒ぎ」を語る。地元の友人たちは最初は驚くも、リアルの感じられない世界にだんだん辛くなる。
夏休みの後半になれば、地元の友人も「都合が悪く」なって会ってもくれなくなる。自動車の免許は無事取得できた。

1991年10月、後期が始まる数日前、親しか寂しい顔を見せてくれないことに気づかないふりをして東京に戻る。

その後の大学時代はなんとかなる。なんとか、のレベルだ。
同類の友人か仲間ができて単位もなんとか取得するも、就活のコネクションなんか皆無でOB訪問も知らないので、佐賀の友人が誰も知らないような大企業の子会社に内定をもらう。「早稲田なのに?」と親にも言われるが同級生が1万人もいる大学だ。ピンからキリまで振り幅も大きい。
1995年、卒業と同時にになれば氷河期に突入している。

卒業すると同窓会に入るように催促されるが、微妙な気持ちで入会する。早稲田卒はブランドだもの。入社した会社を3年で辞め、その後幾つかの会社を転々とする。

2024年、そして変な51歳になって、佐賀に戻る。

変な51歳は今でも変わらないけれども、拗らせるポイントが低いところにあったことで助かったのかもしれない。

こんなこと書きながら心が苦しくなってくるのはフィクションではない。

まぐれで実力より上すぎる大学に合格した地方出身の大学生にために。

こんな感じになる前に、素直に生きようね。

肩肘張ってもすぐバレる。これは偏差値50の大学にまぐれで受かってしまったおじさんからの忠告だ。




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