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先生、いいことがあったの。
中学校三年間、担任の先生が同じだった。S先生は女の人で当時で五十代後半、主に家庭科が担当だった。入学前から姉二人がすでにお世話になっていたこともあり、特に長女は二年生から三年生に持ち上がり卒業までお世話になっていたことから先生の存在を小学生ながらに何となく知っていた。
母は私が入学する前から、S先生が担任であってほしいとずっと言っていて、実際に入学したら偶然にもS先生だった。
私は後にも先にも、こんな熱くて純粋でまっすぐな先生を知らない。S先生は決まってクラスメイトの事を下の名前で呼んだ。卒業式のあの日も涙をこらえ声を震わせながら優しい声で私の名前を呼び、起立したと同時に自然と涙が込み上げてきてどうしようもなかった。
中学生の頃の私は人生で最も非行に走った時期でもあり、夜遊びをしてゲームセンターに入り浸り家に帰らず補導され、時には他校の生徒と取っ組み合いの喧嘩をして怒られたり、生活指導の先生からは放課後にわざわざ別室まで呼ばれて指導され、真面目とは言い難いが、ただ遅刻をしない文系だけ点数の良いおかしな生徒だった。今、戻れるならきっと図書室で休み時間を過ごしていると思う。
S先生にはいつも「あなたは本当は心優しくて真面目なのを知っている」と言ってくれた。反抗期がピークだった中学二年生はそんなS先生に向かって「お前に私の何がわかるんだ」「何も知らないくせに分かったようなことを言うな」と声を荒らげて暴言を沢山吐いてしまい、思い出す度に後悔の念が押し寄せる。
私の中学三年間は思い返せば楽しいことより苦痛と思い出したくない過去ばかりで、もちろん当時をそれなりに共に過ごした友達も多少いたし、今も尚かけがえのない友人として縁を紡いでいる人やS先生に出会えたことは大きな宝物であることには変わりない。
一時期は非行に入ったかと思えば、いつからか頻繁に心が病むようになっていた。人が嫌いで関わりたくなくて素行の悪かった友人とは縁を切り、生理的に受け付けられないクラスメイトがいる教室に入ることへの拒否反応もひどく、給食を吐いたり次第に食べない選択肢をして家に帰ればアニメを見て家族といる時だけ笑顔を見せ、明日もあの教室へ向かうことが苦痛でたまらないと思いながら眠りについていた。将来への不安や進路について沢山悩んで考えてあの頃は視野を広く持つと言ってもほんの小さい世界しか見えていない、あの空間で過ごす日々だけが全てに思えていた。
私とS先生の二人だけで涙を流しながら話したことがある。私は修学旅行には行かないとずっと決めていた。嫌いなクラスメイト達と同じ空間にいるだけでも苦痛でたまらないのに三日間も一緒に行動するなど私は到底出来ないと自分で分かったいたし楽しめる訳がないと思っていた。きっとこの頃からもう集団行動が出来なかったのかもしれない。
授業の合間、S先生に話す時間を作ってもらい修学旅行には行かないことを伝えた。先生はそっか、と一言呟いてそのまま下を向き、長い間沈黙が続いた。もしかしたら何か言ってはいけなことを言ったのではないかと少し不安になった。
先生は突然、声を震わせながら「何もかも諦めるな、と私に言った。辛いのは分かる、苦しいことだってある、でもきっと良かったと思えることが必ずあるから。きっとあるから、諦めるな、行ってよかったと思えるから。修学旅行には連れていく。」と目を真っ赤にして一生徒の前にも関わらず鼻を啜って号泣した。先生の顔を見て驚いたけど私もなぜか静かに泣いて小さく頷き修学旅行にも結局参加した。
結論から言えば修学旅行は案の定、楽しくなくて卒業するまでずっと残りの学校生活は苦痛に溢れ堪える事で毎日を過ごしていたように思う。球技大会も陸上競技会も最後の学校祭も何もかも楽しくなかった。学校祭に至っては途中で抜け出し半分の時間を保健室で過ごしたりあまり人には言えないが放課後はスクールカウンセラーの方とこれからの進路について話したりメンタルケアをしてもらったりと色んな人に支えられ何とか卒業まで漕ぎ着けた。
スクールカウンセラーの方から学んだ事のひとつに、今何が辛いのか、何が嫌なのか、紙に書き出してごらん?と提案されたことがある。うまく言語化出来ない部分はカウンセラーの力を借りてその時どう思ったか、なぜ苦しいのか、書き出すことで解決に繋がらなくても自分の気持ちが客観視出来てなるほどなあ、感じていた。
卒業式の日、S先生はこのクラスの担任を降りようと思っていたと話してくれた。三年生に持ち上がる時に自信をなくしこの子達を最後まで見届けることが自分には力不足でとても出来ないと思った、と泣いていた。それでもやっぱり最後までこのクラスを受け持ってよかったと泣く姿を見てあの時、泣きなが修学旅行になんとしてでも私を連れていこうとした先生の事を思い出した。
S先生の教師歴は恐らく当時で三十年以上あったが人生で初めて生徒を受け持つことに自信をなくし諦めようとしていて、それでもこの生徒達を見届けられるのは自分しかいないと諦めずに最後まで受け持ち良かったと言ってくれた。あの日、泣きながら私に突然、何もかも諦めるなと言ったのは諦めなければこの先にいいことがあるという事だけではなく希望を捨てたり物事に対して見切りをつける事を早まるなと言うことや、その経験が辛くてもその中から良かったと思えること、価値を見い出せという意味だったのだと大人になる過程で気付いた。
今も尚、辛いことや泣きたくなることや上手くいかなくて不貞腐れたりすぐイライラすることがある。結果を出すことを早まり物事を甘く見たり舐めてかかっているのだと反省する。
卒業してからS先生とは何度も電話をして年賀状のやり取りもしたし手紙も送った。電話では新しい高校生活や夢を見つけ転校して頑張っている事を話したり、S先生が私の卒業した春にその学校を離れ新しい赴任先の学校では生徒を受け持つことはなく家庭科の担当のみになったことを聞いた。電話越しでS先生は教師生活の最後に受け持ったクラスがあなた達で本当に良かったと言っていた。
春が近づき外を歩いていると袴で歩く学生や胸元に花をつけた制服姿の学生をちらほら見かける。卒業してこれから新たな世界に旅立ち沢山の景色を見る
。小さい世界で生きづらさを感じていたあの頃は何もかも楽しくなくて苦痛を感じていたけど、高校、社会人と経験を経て今、世界は広く楽しい事に溢れこの先の人生を自分の手でいくらでも変えていけるのかと思うと楽しくてワクワクしてたまらない。
きっと良かったと思えることが必ずあるから、と言ったS先生へ、私は卒業してから今日に至るまで沢山のいいことがあったよ。投げ出したかった事も泣きたくなる辛いことも時間が経てば、あの経験をして良かったと思えるほど大人になった。もうきっと教師を退職していると思うけれど、この先も思春期の生きづらさを必死で理解しようと手を引いてくれた人はS先生だけだ。
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![野田 あずき](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/135705388/profile_fae97a214ac33ce36378474e31285c47.jpeg?width=600&crop=1:1,smart)