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「テクニウム」を読んで


数年前ですが、
「テクニウム――テクノロジーはどこへ向かうのか? 2014 ケヴィン・ケリー 訳服部桂」
という、テクノロジーについての読み物を読んでいましたが、ふと、文学もテクノロジーの一種とみてみるのはどうかと思いつきました。
文学が成立する以前に、文字と言うテクノロジーが現われたわけですが、これは、意志や知識の伝達のためのテクノロジーということになります。
文字によって、いわば空間が広がる。文字以前に言葉はあったでしょうが、声に出してそれで終わり。目の前にいる人にしか伝えられない。
これをもどかしがって、文字ができる前に物を残すことによって、伝達をしたと思います。例えば、石や木の枝を置いて。その置き方で。
続いて、地面、そして洞窟の壁に模様を書き残すことを始めたはず。
それがArt(技術)の始まりですが、模様や絵では、いまいち伝わりにくい。今でも、美術を見て、解説がないと何がいいのかわからない物もありますよね。
それで、記号を考えだした。これは何を意味する、あれは何を意味する。標識ですね。木を刻んだり、縄の結び方によって何かを示すわけです。
これで、その場にいない人にも意志は伝わります。ただ、標識は、一つの事に対して、一つの意味しか示せない。これでは、意志や記録は残せるでしょうけど、知識を伝えづらい。
そこで、模様や絵から記号を考え出し、さらに、いわばブレイクスルーが起きて、文字が生まれた。文字は、組み合わせて使う。組み合わせるから、何通りもの「表現」ができるようになった。
これなんじゃないですか、人類が発展し始めたのは。
少ない手数で、ほぼ無限の伝達ができる。これが文字によって可能になった。
文字という、革新的なテクノロジーが生まれ、それが日本に伝わる。文字のなかった日本語に漢字という書き言葉、つまり文字を輸入して、書き残すことが可能になった。ただ、日本語と中国語では別の言語だから、中国語の書き言葉である漢字をそのまま日本で使うわけにはいかない。どうしたかというと、日本語の音に、つまりアイウエオに、一つ一つ漢字を当てはめるという、ある種、曲芸的なことをした(正確には、一文字一音ではないし、二文字で一音を表したり、意味を借りて表すこともあった)。今で言えば、コンピューターで書くときにローマ字で入力しているが、それは日本語の音をアルファベットに一度ばらした後に、日本語の文字(漢字、かな)に「変換」しているのに近い。これも相当に曲芸的だと思いますが、漢字を日本語の五十音(当時は50以上の音があった)に一つ一つ置き換えて書き残したものが、いわゆる万葉仮名です。例えば、いろはを以呂波と書きあらわした。
万葉仮名は「仮名」ですが、使っているのが漢字だから今の人から見るとややこしいですが、あくまで、「かな」として使われていた。
そのうち、漢字を丁寧に書くのが面倒になる。適当に崩して書くうちに、「もう、これでいこう」と言うことになり、カタカナ、ひらがなができる。また、それより先に、訓(意味)を用いていた。一音一音当てはめるのが、わずらわしいし、意味を取りづらいので、漢字の意味を日本語に当てはめていた。
こうして文字が作り出され、表現が可能になりました。
本来は、勘定や技術の伝達のためのものであったはずの文字が、自分の意志や感情を伝えるために用いられる。揺らぎかかった権威を正当化するために、神話を書き残す。抱えきれぬ感情を吐き出すために歌にする。
更に小説、俳句などが開発される。近代に入れば、言文一致体という技術が開発されて、近代文学が可能になったわけです。
さらに、自分の心情を当たり前のように書き、短いセンテンスを繋げる現代文学にいたる。タイトルが漢字からカタカナになる。
こういうのも、誰かが、革新的なテクノロジーを作り出すのと、変わらないと思います。

やがて近代になって小説の形式が整ってくる。

日本ですと、漱石鴎外が、口語体という書き言葉を作りながら、日本の小説を作り出す。

当然、小説を書く行いには、近代的自我、もしくは近代的理性が発展する。

それが行き過ぎると、物事には起承転結があり、物語り性があるというところまで頭が慣れてしまう。

そうなると、現実の現象の混沌に堪えきれず、秩序に組み込もうとするが、その秩序というものはたいていオカルトじみている。

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