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【小説】蛸親爺(たこおやじ)【168枚】

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〜2月26日 20:00

初出:WesebunWEB

その一

居酒屋の前の往来、路のまんなかで蛸が酔っている。
「たーこたーこ、たーこたーこ」と地面を手で叩いて拍子をつけながら、
蛸が声高に唄う。
花風の吹く夕、往来に面して油染みた暖簾を出す居酒屋の、店先にはビールケースが積まれ、立て看板、一升壜、牡蠣殻が並ぶ。朱塗りの行燈の明りの先に、蛸が八本ある足をだらりと伸ばし、腹を兼ねた頭を横様に倒しながら、墨吐き口を突き出して唄っている。
唄う合間に、「ういーっ」と一つ吐く。また唄う。それを繰り返す。行き交う人々は、『あれは何だ』という様な眼で見ている。
青年が一人、なだらかな肩をまっすぐに起こしつつ、電気屋、乾物屋、鳥肉屋と並び、居酒屋に続く商店街を歩いて来た。下へ向けた視線の先には蛸が酔っている。
「おっ、そこの兄さん。どうだい景気は」と蛸はねめすえた。
「いや、まあ」と青年は細面に呆れた顔付を見せて、足をとめた。
「いや、まあ。か。いいねえ。いや、まあ。まったく、世のなか、何事も
『いや、まあ』くらいがちょうどいいってもんだ」
「そうですね。それでは」と青年は素っ気なく相槌を打って立ち去ろうとする。
「おっ、どこか用でもあるのかい」蛸が這いずって引きとめた。
「別に、家に帰るところです」
「おお、そうかい。そりゃ奇遇だ。おれもこれから家に帰るところよ」
「そうですか。では」と話を切ろうとする青年の足下に蛸が滑り寄った。「いやいやいや、ちょっと待ちなって。どうせなら一緒に帰ろうじゃないの。兄さん、あれだろ。小川さんところの子だろ」
「え、ええ」と青年はたじろぐ。
「だろ。おれはあれだよ。山本。知ってるでしょ。向う横丁の」
「ええ、一応」
「おれは山本の所で間借りしてんだ。と言っても壺だけどな。アッハッハ」
青年が歩き出して、蛸も並んでついて行く。地を這う大柄なヒトデの様である。
「いやあ。今日は昼間っから飲んだ、飲んだ。日の暮れねえうちの酒はこたえられねえな。コマーシャルでやってる様な酒は大抵だめだが、明るいうちから飲みゃ甘露だな。見てよ。顔真っ赤でしょ。茹でなくても赤くなっちゃった。アッハッハ。腰も抜けてます。でも肩は借りません。蛸だから」
蛸は足をしならせて、からからと笑い、青年へ顔を向けると別の話へ飛ぶ。
「しっかし、あの、暗渠の流れの角のマンション建設もどうなるのかね。ずうっと空き地のまんまだよ。この辺の者は残らず反対しているし、一昨日通りかかったら、建設許可証が外れていたけどね。諦めるのかね」
「あそこは、景観に気を配りながら通りより引っこめて、緩やかな段々畑のようなマンションに設計し直しているらしいですよ。壁も淡いクリーム色にするとかで」と青年は答えた。
「へえ、そうなの。しかし、皆景観保全とか言っちゃって、あのマンションの辻向いのアパート見ろ。壁なんか、どピンクだよ。それが塀もなくて。その隣は玉子色に塗っちゃった家とかが、往来いっぱいにまで迫り出して、それがまた赤だ緑だっつうのぼり立てて景観守れってやってんだから、どっちがどっちだか、わかりゃあしないよ。そう思わない」
「え、ええ、そうですね」
「その点、小川さん家は立派だ。今でも生垣を結いめぐらせている。いいねえ。うちの隣の毛糸屋なんか、家ごと立て直すってんで、どうするのかと思ったら、マッチ箱みたいな三階建てで。まあ、手ぶらで挨拶に来るくれえだから、ろくなもんは建てねえだろうと思ってたけどよ。せっかくの地面もコンクリートで塞いじゃって。生垣はもちろん、塀もなし。門もなし。そのくせ、いっちょまえに車止める所は拵えてよ。この間なんか、路を渡ったとっつきで、いきなり警笛鳴らしやがって、まるで犬猫扱いよ。
しかし毛糸屋って、そんなに儲かるのかね」と青年に向く。
「毛糸を仕入れて並べておくだけですから」
「毛糸屋を閉めた際は、老夫婦、これで御隠居だ。ご苦労様でした。あとは、長年暮らした家でごゆっくりって思っていたら、普請って話だ。他に儲け口を持っていたのかもな。住宅メーカーの若い営業の他に、上役みたいなのがついて来たから。一括で払ったんだよ。でもあれだな、やっぱりいくら立派に築いても、門がねえと締まらねえな、家は。見た有様は蔵か櫓だな。うちの素人下宿なんかでもよ、門開けてそのまま一歩も入らずに玄関の戸を引けるからね。それほど狭くったって、やっぱり門があるといいわな。帰ってきたって感じがあるはずよ」
「そうですねえ。門があった方が出(で)入(はい)りが気楽でしょうね」
「ありゃ、一つ間があるんだな。玄関の出端に往来じゃ、そわそわしちまうんだよ。自分の身が内から外へ出んとするのに、つかの間でもあると違うんだよ。それが庭なり、アパートの廊下でもいいわな。そういう、内と外の間があれば神経が楽なんだ。帰りも同じことよ。往来からいきなり家だと、外の気が入り込んで来る様で落ち着かないんだな。と、そういえば、小川さんのご主人最近遅いんだって」と蛸の口から洩れる話の流れはまた変る。
「ええ、残業が多いようで」
「本当に。コレなんじゃないの」と蛸は小指のつもりで足の先を一本立てた。
「そんな甲斐性ないか。アッハッハ。いや、これは失敬。でも、体はいたわった方がいいよ。今、歳は関係ないから」
「おじさんも、気をつけて下さい」と青年も気を遣った。
「おじさんか。へへっ。そうなんだよ。おれはこう見えておじさんなんだ。この間までは、背広を着て会社に通っていたのになあ。どうしてこうなったか。我が身ながら見当がつかねえ。蛸になっちゃ、人の見方が違うからねえ。この間なんて、家賃入れるの怠ったら山本のかみさん、大家だな。それが帰ったら蛸壺がおっぽり出されてたんだ。往来に。驚いたね。慌てて拾って家に入ったら、『月末(つきずえ)までに、三万。きちん、きちん、と入れてもらわないと困りますやね』とかぬかすんだ。いくら家賃を納めねえからって、いきなり蛸壺を放り出すこたあねえじゃねえか」
「下宿住まいもつらそうですね」
「おう。おれが晩飯食ってる傍から掃除機かけやがるからな。おれの行く所、出る所ばかり掃きやがる」
そこに黒い犬を先にして、ジャージ姿の男と女が歩いて来た。鎖をつけていない。男の飼い主がゴム毬を投げた。電柱の手前で止まったところに犬がかけ寄った。ボールを行き過ぎ、夢中で電柱の臭いをかぐ。ゴム毬は飼い主が拾った。
青年は犬連れが行き過ぎるまで、とどまっていた。
青年は目を蛸に移し、
「おじさんは、どうして蛸になったんですか」と問うた。
「それよ。おれもさっぱりわからねえんだが、あれは蒸し暑い日で、ホームで電車を待つ間にのぼせ上りそうなほどだった。会社もひけて、甲武線に乗っていたんだ。妙に電車が揺れる日で、進んだり止ったり、下手ッくそな運転だな、と思っていたら、駅の手前で滞っちまって、五分も十分も動かねえのよ。ホームはそこなんだからよ。降ろして歩かせろ、って言いかけたら動き出して、そしたらまた、『キキィーッ』っとレールの軋む音が耳をつんざいたんだ。頭がぐわあんとなった。たまらず目を瞑ったら腰が抜けちまってて、床に滑り落ちていてな。今度はけしきが虚ろなんだ。途端にみんなぐるぐる回り出して、ひっくり返ったかと思った。
まわりは靴ばかり見えた。慌てたね。とにかく動こうとしたら、床に足が投げ出される感じで。目の前に蛸の足が見えるんだよ。常に三、四本。手はどうした、手は。と思って手を動かそうとしても、やっぱり足が動いちまう。三、四本がうねうねと。あっとたまげて、これは蛸になっちまったんだな。おれは思ったね。
何しろラッシュアワーだ。考える間もなく人が押し寄せて、とにかく電車の外に出たよ。出たはいいが、さて、どうしよう。駅を出てよ。硬い地面の上を歩いたね。これが痛いんだ。歩くうちにするすると行けるようになったがな。はじめのうちは慣れねえから、足をぶん投げる様に歩いたわ。松の廊下を行く大名の如きだな。公園まで来て、少し落ち着くかと思ってベンチに行ったら、植え込みに猫がいた。葉っぱを食っててな。『あっ猫だ』と思ったら、猫も気がついて、こっち見たからさ、話しかけてみたよ。何しろこっちは蛸だ。猫にだって話が通るかもしれないってね。
『こんばんは』って挨拶してみた。そしたら、猫は身を震わせて、目を丸くしているんだ。おれは通じたのかと思って、手を挙げて近づいたら飛び跳ねて、逃げて行っちまった。
その後は、浄水場までたどり着いて。表は車や自転車で険呑だから、路地へ入った。角を折れると一本道だ。浄水場の板塀を右に離れれば、神社の森だ。くろぐろとした道が伸びた片側には、鳥居や石灯籠や、杉の木立がただの黒い物となって並んでいる。化け物屋敷の廊下を行く様な心持だ。烏がまとめて十羽ほど、森から飛び立った時は一度こらえたが、出し抜けに犬が吠えた時にゃ、肝を抜かれて腰が抜けかけたわ。腰は無かったんだけどな。へへっ。それでびっくりした拍子に板塀の破れ目から浄水場入りこめちまって、足一本入る程度の隙間だったが、骨も殻もねえ軟体動物にゃわけねえさ。
入りこんだ所にあったのが貯水池よ。妙なものでやっぱり蛸なんだなあ。水を前にしたら、体が誘われる様で。身を躍らせて貯水池へ飛び込んだ。いや、習慣てのは無益なことをさせると思ったよ。何をしたと思う。息を止めたんだよ。これが。もちろん、ぜんぜん苦しかないんだよ。足を八方に広げてな。落下傘のていでふわりふわりと底まで下りて。月の光が射し込んで、水の底が蒼く漂っててさ。体は自在さ。するすると底を這って、あちらこちらに行ったり来たり。飽きたら、吸盤と吸盤を合わせたり離したりして。
ふと、腹が減ったな、蛸は何食うのかと思ったけれども、なんでも食えそうだ。まあいいや、戻ろう。と水の上に顔を出すと、壁が遙かに上まで続いている。今こそ、この吸盤が役に立つだろう。たやすいこった。吸盤つけときゃ落ちやしないからな。まずは吸盤をくっつけてさ、二本目も投げる様に、ぺたって、貼りつけて力を入れ、体を引き上げようとした途端に水に落ちたのよ。吸盤ってのは妙なもんでさ。力を入れなくとも吸いつくのよ。ところが、力を入れても吸いつく力が強くなるわけじゃないんだな。焦ったねえ。重ねてやっても同じことよ。壁のコーティング剤が相性悪いのか、吸盤にぴたりとこねえのよ。上るのは止して、水底へ潜ってさ。手立てはないかと思いめぐらせて。水の上に顔を出してみれば、コンクリートの壁が聳えていて、区切られた夜空があるだけ」
「満月って言いましたっけ」と青年はしるこ屋の角を曲がる。
「そう言ったっけか。何にせよ、物陰でもあれば落ち着けるんだが。もちろん生きた物なんていないし。と思った矢先に何かが動いて、来るんだ。太いのが来るな、と見れば歯の鋭いうつぼよ。なんでうつぼが来るのよ。
飼われていた奴だ。頸に革紐が巻いてあったからな」
「どうしてうつぼが貯水槽に入り込んだんでしょうか」
「さあな、どこかの奴が、浄水場に放り入れたんじゃねえか。とにかく、うつぼだ。大きく口開けて、のたくりながら近づいて来る。うつぼにゃ勝てねえ。うつぼがおれを食いに来たさ。おれを食うのかって聞いたら、『くう。』って言ったからね。口開けて『くう。』って頷いたわ。丸い目をして。
おれがうつぼに食われる。その寸前に、『どぼん』って何かが降って来たのよ。それが甲胄の如き伊勢エビでさ」
「おじさん、それは実際の話ですか」
「そうよ。ここにいるおれが蛸なら、ありゃ夢じゃねえ」
「航空便から落ちてきたんですかね」と青年は考察した。
「どうだかな。丈夫な伊勢エビだ。それがうつぼの前に立ちはだかった。泳いでな。どうも、うつぼの奴は伊勢エビがいけすかねえらしいのよ。斜に構えて伊勢エビの方をチラチラ見ていたからね。おれはおれで、だんだん伊勢エビを食いたくなってな。
それで三竦みよ。おれが伊勢エビを食ったら、おれがうつぼに食われる。伊勢エビがうつぼを倒したら、おれが伊勢エビを食うだろうな。うつぼが動いておれを食っちまったら、どうもうつぼはいやだろうな。伊勢エビと二人きりで。ストレスたまりそうだ。うつぼの奴、おれに近づきながら神経は伊勢エビに向いていたからね」
「伊勢エビは、うつぼの視線が気にならないんですかね」
「時折、跳ねていたな。うつぼはその度に引き返して行く。それでよ、いい加減、ぢっとしてても仕方がねえ。おれがまず、うつぼに踊りかかった。うつぼは壁や底に当たると引き返す癖があるらしくてな。その隙に乗っかって。いや、勝てると思っちゃいなかったが、こっちは蛸でも頭は人間だ。うつぼ如きになめられてたまるかって気を奮わせて。それに伊勢エビの奴も助太刀をしてくれるだろうと当てこんでいたから。そうしたら、伊勢エビの奴、どっかに行きやがった。おれが食われたら自分の天下だと思っていやがるのか。おれだって気を遣ってやったのよ。
うつぼは強え強え。蛸の力じゃどうにも太刀打ちできねえ。革紐で締めつけてやろうと思ったんだが、頭から抜けちまった。うつぼの目が光ったと思ったら、振り落とされた。伊勢エビを具足煮にして食っとくべきだったと観念した間際、地の割れる様な音がし出して、地面が引き抜かれた気がした。行き着いた先が暗くてな。見通しが利かねえ。ふと、何かにしがみつきたくなってさ。水のなかでやたらめったら足をうねらせた。出口の知れねえ貯水池で頭が痺れてきて、しまいに墨でも吐いてみたが、何にもならない」
蛸は俯いて、青年に後頭部を見せながら、胴震いを一つした。
「それがな、正気に返ったら蒲団で寝ているんだ。何だ夢か。やっぱりあれだな。昼に弁当食った後で、割り箸を折らずに捨てたのが間違いだった」
「そのお呪い、民俗学の授業で習いましたよ」
「そういうところから隙が出るのよ。おかげで狐か狸に化かされちまったな。恐ろしい夢だったって、蒲団を摑んだら、手が蛸なのよ」と蛸は足の一本を挙げてくねらせた。「それで起きたはいいが頭が働かねえ。廊下を行く音がしたなと思ったら、女房が来て、おれを見るなり、短く叫んで廊下に下がったと思ったら、箒と塵取りを手にして出て来た。『何だ』と言う間もなく、おれを塵取りと箒で挟みつけて、そのまま塵取りごと、庭の焼却炉に叩き込みやがった。すぐに煙突から這い上がって。女房の奴は家に入っちまったか、だめだこりゃ。当分話にならねえって、出たわ」
蛸と青年は、一軒の家の前で立ち止まった。
「おじさんの家はここですよね」
青年の言った先には、勝手口の様な門構えの家がある。細い門柱には御影石を刻んで『山本』と印して、下に『貸間アリ』の札が下がる。めぐらされた板塀の隙間に顔を出した岩蓮華は、たそがれに色を失ったまま動かない。
「おう、そうだな。じゃまたな。今度遊びに来てくれよ」
「はい、さようなら」
青年は会釈して去った。
めぐらされた板塀を押し退けんばかりに家が建つために、塀と壁の間は、帯ほどの地面があるばかり。門と玄関の間は蛸の頭ほどもない。一歩入って門を閉めれば蛸の頭がつっかえる。
蛸は往来に立ったまま門を開け、玄関の戸を開け、敷居を二つながら跨いで門を閉め、玄関の戸を引いた。
家の内からは、「あーあ」という山本のおかみの溜息が、外では街燈が明滅して夜になった。

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