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小説を書く際に考えていたこと
日本語は、論理性に欠けると言われているが、英語は、自分の感情を表すのに適しているのであって、日本語が非論理的と言うわけではない。明治時代に、欧米の言語に倣って、論理的になろうとした結果がどうなったか。接続詞が「正しく」使われていれば論理的なのか。それで正当性が与えられる物なのか。接続詞を使うことによって、他の読み方を許さない。したがって、相手にものを考えさせないようにしているのではないのか。
多和田葉子さんの本に書いてあったが、「雪国」。川端康成の「雪国」の冒頭を日本人と米人に絵を描かせると、日本人は、汽車の中から見た景色を書くのに対して、米人は、空から見た景色を書くのだそうな。神の視点から見たら、整理整頓したくなるに決まってます。自分の都合で。
小説を書く場合、ふつう、一人称と三人称があります。外国の三人称と日本語の三人称は同じものとは思えない。外国語の三人称は、高いところから見ているのに対して、日本語の三人称は、同じレベルから見ている。わたしの技能の問題かもしれないが、三人称と一人称にあまり違いが感じられない。小説の中の「おれ」と言うのは、果たして一人称なのか。「おれ」と呼ばれる「彼」を書いているのではないのか。
説明よりも製作。
小説は、その人なりの解決方法を示す。エスケープしたり、本気で立ち向かったり。
小説もデザインと同じ部分がある。整列、組み合わせ、反復、constrast。
本当の人間は、小説に出てくるほど簡単ではない。
映像と言うよりも、カメラのフレームを思い浮かべて描写する。
概念よりもイメージに頼る。
古い材料で新しいものを作る
言葉以上に、色や仕草や物の動きをよく見る。では、鉛色の空が、とだけ書くのではなく、その空が、どのように変化して、どのような風が吹いて、どういう匂いを運んでくるのかを描写する。
人は、相手のイメージを愛する。
作家のコツ。登場人物になろうとしないこと。書く側の人間ということを忘れないこと。
言葉は、すべて外から来る。
まずテーマがあって、とある人物ととある状況があればどうなるか、そうして結論に持っていく。
読みやすさを軽視しない。
小説が人生に、人間の意欲に働きかけるためには、この手近に住んでいない、しかも何処かに住んでいそうな性格を創造せねばならぬ。芥川
一人称で他人の事を書く文体、自分の事を書く文体は違う。
昔話の場所や道具、人を現代のものに置き換えては。
ストーリーからプロット(説明)へ練り上げ、さらに時間の構成を考える。
会話の同語反復こそが日常性。
こういう構造の中にこういう構造(性格)を持った人間が入れば、こうなる。
プライベートの秩序と、パブリックの秩序をどう整合させるかがお仕事小説の要だと思う。
理由なんて、あるわけがない。
その世界は、誰が支配しているのか。
文章が上手ということは、描写が上手と言うことではない。
「ここの間は、どうしたらいいのか」にかかっている。
間ということは、テンポにもつながってくる。
ストーリーを作らないのは、キャラを作っていないからということもある。
状況は作れているのに、ストーリーにならないのは、キャラが主人公しかいないからで、あとの登場人物が、主人公の主張のための道具立て、書割のようになっているから、そこに世界と世界のぶつかり合いがないから、ストーリーが生まれない。
ユーモア小説は、ある程度文体が決まって来るから、登場人物が制限される。
こういう話を先生としたことがある。
「先生が黒板にチョークで何か書く度に、チョークが減っていきますよね。小説を書くこともおなじで、書くたびになにかがへってゆくんですよ」
小説を書くというのは、このように比喩でもって、物事の本質を描写しようとする試みでもある。
過去が増えるとともに、永遠を信じるようになる。
ドーパミンが出ている人間を離れて見れば、喜劇になる。
そんなことを聞いているんじゃない、というのがユーモア。
小説を書くことは、現実のものでフィクションをつくるという逸楽。
Master your instrument Master the music.And then forget all that bullshit and just play.
-Charlie-Paarker-
小説が自分にとって、何のために存在するのかを知る。その目的に適っている事を書き、叶っていない部分は外す。自分が書きたい様に書くのではない。その目的に外れている物は書かない。そうして出来上がった物こそ、本当に書きたかった物なのである。
書く行いは写真の現像の様な物ではなく、思考を伴った行為である。一行目を書いたら二行目は一行目に制される。一行目はそれなりの秩序を持っている。秩序の上に二行目が来るから、かたちとなる。統一されたものとなる。紙の上に現れたものに基づき、また引かれてペンを進める。初めは、この行為が欠かせない。書く行為の基本姿勢はこれである。何であれ、初めのうちは基本姿勢を繰り返して身に着ける。
書く事は思考の手法であるが、書くために思考があるのではない。
書くならば、「人の勇気を鼓舞したり激励したりするものが宜しゅうございましょう」との考えに限った物が好い。
きれいで整っているものを好む者が、それに反した物を見れば驚く。「ネタ」とはそういう物に過ぎない。
今一つの描写やセリフなど、外してみれば、話の筋と矛盾していた事がわかる。今一つのところが矛盾するのは、作者の性格と矛盾しているからに他ならない。
これは日常でも同じ。自分の性格に反したことをしたり、言ったりすれば、矛盾となって現れる。
「もったいないから」という理由で入れた部分を外せば、別の言葉が現れる。外そうか迷った物は、大抵あとになって外している。
古語というほどのものではないが、旧い言葉を使うようにしている。人間の都合で生み出されて、人間の都合で使われてしまう言葉を拾い上げている。海岸に寄せられた人の見向きもしない宝物を拾っている感じ。
表現するということは、どういうことでしょうか。
自分の考えを伝えるには、頭の中にある言葉をそのまま伝えても伝わらない。
言葉を選び、足らないことは調べ、研究し、まとめ方も工夫した上で伝える。
自分の思いを表現するのが創造性であるわけで、表現は、自分と他者との境を見据え、やがては自分を解放するということと考える。
思いつきや、思考の突破は、テキストでも絵でも、紙の上に置くことで「物質化」し、走り始めると言うことが少なくない。
しかも、その試行回数が、質に結びついてゆくと言っても差し支えはない。
一度書くという行為を身に着けてしまえば、後は、そのヴァリエーション。変奏曲。
言葉では表現しきれないものがある。それでも、なんとか、言葉を用いて、それに近付こうとするのが小説を書くという営みなわけだが、そうしているうちに、自分の考えていた言葉になっていない物が、別のものになって、それは、書いているうちに自分でも到達しなかったところへ至り、自分でも知らなかった新しいものが生まれるのだと思っていたのだが、実のところ、既に存在している言葉、言語表現がすでに持っている、コードと言うか、表現手段に取り込まれてしまった状態であるらしい。要するに(要するに、とか、つまりとか書いている時点で、既に自分の考えが別のものになりつつある、自分でも表現しきれていないということを示している)、言葉で表現しやすいように、表現可能なように、頭の中にあるものを編集してしまったのである。それを視覚表現を始めて気が付いた。
何と言っても、辞書を引く。