オキシトシンを出さずに、ドーパミンを出し続けるとどうなるのか
最近、友達と飲んでいて「我々は、”おもしろ乞食”なので普通にはもう戻れないよな〜アハハ」という会話になったのだが(まずここでツッコミどころ満載なのはわかる)、「いや、ちょっと待てよ」「もう、人生、この世の奇想天外を食べ尽くす旅に出て、未知を感じる力が途切れたら死ぬやつじゃん」と思い、「それもそれでどうなの」と感じたので、改めて、「面白い」について考えることにした。
というのも、「自分の好きなことをしなよ」と多くの方に言っていただくにもかかわらず「嫌なことははっきりしているし、やらない」が「好きなことがわからん」「注目とかされたくない」だったので、ず〜〜っと自己分析をし続けたところ、どうも「好き」=「面白い」なのである。
あれ、「好き」って、セロトニンとかが出るんじゃなかったっけ?なんか、ホワ〜っとするやつじゃなかった?いやそういうとこもあるけど、きっかけはやはり面白いかどうかであって、私の好きってドーパミンでしか出ないの?それやばくない?もうやばい人としか会話できないか、一生ネトフリ見てるしかなくない?(あっやばい実際そういうとこある)
実際、今日はこの漫画に出会ってしまい、あっという間に10巻以上読んでしまったが、おそらくドーパミンが出過ぎて動悸がする(褒めてる)。
「青野くんに触りたいから死にたい」
すごい。こういう作品大好き
こういうのを日々摂取してるから日常生活に空虚感が増すのである。当たり前である。日常でこんなんがしょっちゅう起こってはたまらない。フィクションですから。エンターテイメントですから。
多分「非日常モノ」「奇人変人」(なお人のことは言えない)を「日常的」に摂取し続けた結果、ドーパミン平均分泌量がぶっ壊れたままの人生なのである。う〜ん、このままでは躁鬱になる。そして、ここで「それではダメなのか」「個性は良いことではないか」「日本は敗戦後教育により画一化が」などと言い出すと話がややこしくなるので止める。ダイバーシティは別の話。
しかし特にデジタルネイティブ世代では、似たようなことになっているヒトの率は増えてきているんじゃなかろうか。
そろそろ幸福感の構造を知らないとドーパミン廃人になるかもしれないと思いし、他の類似の誰かの相談に乗れる根拠にもなるかもしれないので、ちょっと科学的な見解を勉強することにした。
これ…幸福の科学だ…などと内心セルフボケをしたが横に置いておく。
幸せは3段構成
最近調べたところによると、人間の幸福の感じ方というのは3段構成らしい。下から1→2→3の順で構成する必要がある。
セロトニン|健康性。規則正しい生活による自律神経安定化で得られる
オキシトシン|社交性。他者とのピアメンタリングにより得られる
ドーパミン|刺激性。成功と書かれてることがあるがよくわからないのとあまり興味がなく、自分にとっては知的快感に思われる。
つまりセロトニンは基礎建築である。健康で文化的な最低限度の生活というのはセロトニンの分泌を指すのだろう。清潔で外敵や自然から守られた衣食住環境というのは生き物としての安心につながる。
次がオキシトシン。家族、学校や会社の人たち、友達に恋人。猫や犬といったヒト科以外の動物、すなわち言語交渉以外のコミュニケーションでも構わないらしい。
最後はドーパミン。お金や名声で感じる人が多いらしいが、自分はそのへんはあまり興味ない(お金はインフラ=セロトニンに分類される)ので、知的好奇心と読み替えている。
なぜオキシトシンが出にくいのか
別に超人見知りで友達がいないかというとそういうわけではなく、好奇心のままに飛びつくし、長年の内省と言語化訓練のおかげで、今ではずいぶんと会話が平気になり、社交性が上がったように思う。だが、この3段構成において、私はどうもオキシトシンだけがスカンと抜けがちな気がする。
セロトニンについては以前から結構気をつけているし、元々体力があまりないので、すぐ寝る。どちらかというともうちょっと運動しないとである。
わかってはいたが、問題はオキシトシンである。
HSPのケがあるため警戒心が強く、物理的接触も嫌がるのでハグもあまりしないし、急に動くモノが怖いので動物や虫が苦手。
さらに、割と幼少期から「興味ない話聞いてるより本読んでる方がいい」などという思考が発生することがあるのだが、これってつまり、「xxxさんとの楽しいおしゃべりによって今日も幸せな日々だった(オキシトシンの獲得)」じゃなくて、「xxxさんに拘束されたことで知的興奮を得られる機会が失われた(ドーパミンへの依存)」がだいぶ初期から形成されているわけである。
これはあかん。オキシトシンさんの方が優先度が高いにもかかわらず、ドーパミン廃人のせいで取得がないがしろになっている。多幸感の薄い人生になるはずである。というか普通に失礼である。誰にでも楽しい時間を提供できないコミュ障の言い訳である。ごめんねオキシトシン。
家族に対しても、自身の好奇心のありかを常にトレースしてもらうといった振り回す行動を取れるわけではないし、そもそも家族の前に全員他人である。一緒にいればいるほど、言わなくてもわかる部分は増えてはいくが、相手には相手の波もあれば、他人の人生なのだから、それは手を取り合っていく必要があるし、距離を置く期間だってある。
家族や友達が自分のベースを作ってくれている、これについては心底そう思う。ドーパミンに振り回されるとこれを見失いがちになる気がする。なぜなら興奮していると、それが優先になるからだ。家族や友達に対して、仕事を優先して、仕事思考できついことを言ってしまうだとか、そういう言動はこの構造からくる気がする。これは順序を間違えているのだ。その発言が本心であったとしても。相手が他人であることを見誤る程度には距離を測れない状況まできているということだ。結構怖いことだ。
ドーパミンは強いのだ、自分を強化してくれはするが、他を壊すほどに。
ドーパミン中毒の末路
結局、ドーパミンばっかりにした結果、のめり込んで、オキシトシンのバランスも崩れて、セロトニンが食われていく。要は、規則正しい生活を送ったとて、食欲がなくなり、体力は落ち、脳が興奮して夜眠れなくなる。頭だけが覚醒して身体がボロボロになっていく系の躁鬱の出来上がりである。起業家とかこういうヒト多い。やっぱりバランスが必要なんだ。
そして、ドーパミン中毒だとオキシトシンが出しにくい理由がもう一つある。「話が合う人がいたらオキシトシンを分泌できる」ことである。オキシトシンは誰が相手でも分泌されるわけではない。自分が心理的安全性を抱き、理解し合えたと感じることで分泌される。
つまり、自分に引かずに話を聞いてくれるか、自分と同じ課題を持っている人か、自分が面白いと思う話をしてくれる人の3種類ということになってくる。これは仕事でも恋バナでも同じことだ。
ちなみに酒も飲めなければタバコも吸えず、会話の順序性がないと口も挟めないタイプのため(発散型会話に入れない)、悲しいかなウェイ系の飲み会が頭で理解できたことがなく、飲み会が好きでたまらないという人が羨ましくて仕方がない。自分にとって「ご飯食べよう」は「激論しようぜ!」に近い。近い属性のコミュニティが必要で、ハードル高い。あと大体おじさんが多いので尻込みする。
ドーパミン先行でボリボリと未知を食べ漁り続けたら、そりゃあマニアックな会話ができる相手はどんどんと限られていく。結局、社交性に偏りが出て、自分自身でも「自分は変わってるんだ」となり、だんだんとバランスは崩れていく。(一方で、一つのことを深ぼるのでなく、広く中くらいまで掘るタイプだと、全方位において、突き抜けてるヒトほどじゃないので、アイデンティティの確立にもならない)
自分にできること
端的にいうと2つの分岐がある。
一つはドーパミンのことを忘れ、オキシトシンを意識して暮らすこと。
もう一つはドーパミンに従って、オキシトシンのことを忘れることである。
どっちを選べばいいかは明白で、明らかに前者である。
なぜなら、後者は結果的に全部ぶっ壊れることが構造上わかりきっているからである。
それでいうと、後者をやらないと気が済まないというのならば、心身がぶっ壊れるまで一度ドーパミンに従うしかない。いろんなものを失うだろう。一方で、命を削って何かを残したいとき、生き物としての生き方を捨てて、この期間を作ってみるのも一理ある気もしてきている。
それは、AIとリモートワークの普及があるからだ。まるでテルマエロマエのように、労働義務に対し、余暇が増え、ヒトの余白は倫理や道徳に振り向けられ始めている。余白が多ければ、ドーパミンに浸かっていても、日常に戻すべきタイミングがそんなに多くなくてもいいのかもしれない。(生き方によるが)
自分はいま小説を頑張っているので、ちょっとぶっ壊れ方向にいこうとしている。いや、なんかここまで言語化と自覚ができているのなら、どうにか予防線張りながらやりたいものだが、イっちゃってるからこそ、トんだものが出来上がるというのもそれはそうかなとも思う。岸辺露伴先生は本当にすごいのである(だからフィクションだって…)。
できるだけ、それこそAIやテクノロジーを駆使して、幸福管理をする生活を送れないだろうか。そうか、そんな作品を作ってみたらいいのかもしれない。
とかく、分析とは非常に有用なものである。