苦しみに価値を置かない
※この記事は2023年2月14日の以下リンクのX(旧Twitter)の引用ポストとリプライを元に作成されています。
https://twitter.com/nobuyoshi111/status/1625470061287968768?t=XI9FQxpgoQo1iWTo9hE1vQ&s=19
ここ何年も僕には友達がいなかった
ようやく去年の秋にできた友達にIBSだと告白した訳だが、実はそもそもは別に伝えなくても良いと思っていた
ただ自己開示は僕の明確な課題だし、同じ悩みを抱えた者同士で共有できるサンプルくらいにはなれればと思いそうした
結局僕は彼に全く理解を求めていなかった
孤独な時間が僕を一人でも幸せに生きていけると確信させた
自分が自分のことを理解していればそれで良いんだって思ってた
誰かに依存しないくらい自分と向き合えたから、たとえこの友を失ったとしても別に怖くはない
でもそれでも人と関わりたい、人生が自分の内側で完結するのはとてもつまらないから
何かの病氣ではないが彼も相当大変な想いや苦労をしてきた
僕はIBS告白の最期に「〇〇くんが色々辛い経験を話してくれたから俺も自分の苦しかったことを伝えようと思った」と付け加えた
そしたら彼は僕の話を拾うわけではなく彼自身の話を始めた
普通はこういう時はこっちの話を聞いてもらいたいものだ
彼はよく「苦労してるね」と周りから言われるが、自分ではそこまで苦労している感じはしないと僕に伝えたきた
そして、こうも言った、自分よりも苦労している人なんて沢山いるのだと...
ショックだた!それは僕が僕の苦しみに執着して凝り固まっているのだと腹落ちさせるのに充分な言葉だった
誰もが他人に理解されにくい苦しみや痛みを抱いている、病氣の有無や苦労の量は本来関係ない
苦しみとは僕という存在を特別に感じさせるための単なるオモチャだった
色やカタチは違えど本質的には人と同じはずなのに、みんなとは違う自分だけの特別なそれを持っている自分にずっと価値を置いていた
僕はまるで苦しみというオモチャで遊び続ける子供のようだったんだ
例えば「苦しんできたからこそ、その苦しみを活かして誰かの役に立てよう」なんていかにも前向きな動機にみえるだろ?
でもそれは、もうとっくに卒業してもいいはずの使い古したオモチャを見栄え良く取り繕っているのに過ぎないんだ
子供はよくオモチャで遊び続けるため(苦しみに価値を置く)の言い訳をする
「IBSでこれだけ苦しんでいるのだから人と関わることは避けても仕方がない」、「目立たないようにした方がいい」
苦しみにより制限する捉え方、世界観も意味のない言い訳じゃないか?
苦しみに意味を求めるとろくなことがない
苦しみとは関係なく自分には価値があるって信じる必要があるんだ
苦しみを理由にしなくても人と関われるし、ましてや理解される必要なんて無いんだ
苦しみは確かに存在して、みんなが抱いているものでもある
ただそこに価値や意味を求めるのはオモチャで遊ぶ子供なのだと自分の心には刻んでおきたい
僕は苦しみに執着している人達を子供だと言いたい訳ではない、これは避難の言葉ではなく自分自身を鼓舞するための言葉だ
ただ誰もに苦しみがあって、大半の人達がそれを避けるために己が都合で行動している
そんな中で自分だけの苦しみに執着することが本当の苦しみの原因なんじゃないかとは思うんだ
IBSであることはもう僕の悩みではない、僕はもう人と関わるのにこのことを理由にしたり、言い訳したりしないから
彼ががどうして僕のIBSの告白を拾ったり進んで受け入れてくれなかたのかは分からない
でも僕と彼が友であることにIBSは関係ないのだと確信できた、この確信をもっと大きく広げていきたい
苦しみに価値も意味も置かなくなると
自分は自分でいて良いんだって感覚が生まれてくる
今どうしたいのか、どんな自分でいたいのか
そういったものを大切に生きていきたくなる
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