出版までの737日(Day93・啓示)|編集こぼれ話③
2024年9月、農文協から『牛乳から世界がかわる 酪農家になりたい君へ』(小林国之著)が発売されます。
この書籍に関わった編集チームによる「編集こぼれ話」や本書のイチオシなどを、全5回に分けてご紹介します。
改めまして、小林国之著『牛乳から世界がかわる 〜酪農家になりたい君へ』の担当編集、柿本です。前回はまさかの1日目/737日 で終わってしまいましたので、時計の針を一気に進めて、93日目から始めましょう。93日間何をしてしたかというと…ひたすら悶々としていたのです。
Day93:2022年12月1日 啓示
この日は企画提出前のブレストとして、農文協の編集者である阿久津若菜さんと、学会で東京に来ていた小林先生、市村君が初めて直接会った日でした。
本の制作を実際に進める(出版社が制作を決定する)のに必要な要素は、本の内容と構成。章立てというか、骨子くらいまでを仮組みして、そもそも本として成立するのか、初版を何部にするのか決めていきます。最初の企画書が大事というのはどの業界でも一緒なわけで。前回ご紹介した企画の「骨子」をいかに肉付けして展開するか決めきれずに、版元編集者(この時点では出版が決まっていないのに来てくれた。優しい…)と著者も含めブレストをお願いしたのでした。
ちょっと振り返り 〜Day93
この時点で、目指す本のイメージとして目標としていたのは、田中孝幸さんの『13歳からの地政学』でした。「地政学」という馴染みのない言葉をあえてタイトルに使い、歴史問題やニュースの報道の裏側を解き明かしていく。まるで知らない主人公と一緒にスタートをして、航海をしてともに成長していくという成長譚の仕立ても見事です。20万部超えという大ヒット作なので、ご存じの方も多いでしょう。
小林先生の専門である「農業経済学」もこの立て付けの一部を使ってときほぐすという構成ができないかと思って、改めて『13歳からの地政学』を研究の目線で読んでみたんです。
…すぐに気づきました。無理だということに。
「偉そうなことを言って、なんなら二匹目のドジョウを狙おうとして申し訳ございません!! ワタクシには100年早かったです! 生まれ変わって出直します!」と、そっと本を閉じました。
いや、もうホントに巧みなんです。匠の技なんです。文章も編集も。内容とストーリーのつながりも必然性がある。テクニックも経験もない自分が同じことをしても、お話にならないくらいの劣化版ができるだけというのは目に見えていました。
小林先生にとって、この本はいわばメジャーデビューの一作目となる本です。これは私の持論ですが、一作目はその人らしさが詰まっている本であるべきで、最初の1歩を正しい方向に踏み出していることが何より大切です。そんな大切な一作目を私の編集で潰すわけにはいかない。何より、先生の「核」のようなものが、この構造とはどうしてもずれる。そんなの、当たり前ですよね。
「じゃあどうすんだ…」と悶々としました。この時点で、小林先生にとって最もいい方法は、私が敏腕の編集者を紹介することだったと思います。ヒット本を何冊も編集している、あの人、この人。知らないわけではありませんでした。それでも、どうしても手放せなかったのは、ひとえに編集者としての私のエゴです。先生すみません!
再び、Day93
外面はにこやかに始まった打ち合わせですが、内心は悶々しっぱなし。そんな私の心の内を知ってか知らずか、小林先生は突然、啓示を与えてくれたのです。2つも。神か。
小林先生が話してくれた啓示その1は、農家(酪農家)という「仕事」の特性でした。
仕事について考える時、「オンとオフ」とか「仕事とプライベート」など、生活と労働を分けて考えることが少なくないと思います。でもこれは職住が分離した近代になってからの概念ですよね。農業、特に生き物を飼う畜産の仕事は生活と労働が分かち難く結びついており、「牛飼い」は仕事というよりも「生き方」という表現が近いのだと。
ハッとしました。
近現代的な物差しでは「いかに効率的に稼ぐか」「プライベートな時間を確保できるか(ライフワークバランス)」「仕事でいかに自己実現するか」「成功するか」などが仕事選びの基準となることが多いです。でもこのような考え方は、資本主義の思想を前提にした基準であり、職住分離の考えが根底にあるわけです。
前回、小林先生がある学生から、「自分は大学を卒業して酪農家になりたいと思っているが、親から反対されている」というメールを受け取ったと紹介しました。
このメールをくれた子の親御さんは、上記のような考えで反対なさったのでしょう。休みがなくて、牛に蹴られて怪我をするかもしれない、ふんまみれになって臭いかもしれない。出産時には夜中も眠れないこともあって、手元に残るお金を考えても、もっと「効率的に稼げる」仕事は沢山ある。そんな風に考えたのでしょう。
でも、人が生きるという営みの中で、お金を沢山・効率的に稼ぐことだけが幸せなのでしょうか。牛飼いという、近代化のずっと前から続く営みの中で、生き物と触れ合い、共に生きる。その暮らしの「豊かさ」や「充実さ」は、上記の物差しだけでは測れないものである。そう小林先生は教えてくれたのです。
「農家になりたい君へ」というタイトルには、資本主義の豊かさの基準だけではない、別の生きる基準があるということを若い世代に伝えたいという、先生のメッセージがあったのだ。そのことに気づき、静かに燃えている小林先生の情熱に胸打たれたのでした。
もう一つの啓示は、酪農という農業形態の遍在性とでもいうべきものでした。
例えば野菜や米を栽培する農業の場合、各地の気候的・地形的条件で栽培する品種も大きく違い、国ごとやエリアごとの「比較」することが非常に難しいのです。例えば日本の中山間地の水稲栽培と、ヨーロッパの平野の小麦栽培は、根本から違いすぎますよね。
対して酪農を見てみると、牛(または羊、山羊など)を飼う最低条件はそこまで変わりません。牛がいて、牛舎があり、牛の餌があり、牛を飼うことで糞尿や乳、そして肉を得る。搾乳機などの機械や飼料、牧草を育てるための肥料などは世界中で取引がされています。
そうすると何が起こるか。まずは世界各地の酪農を「比較」して見ることができる。さらには、例えばA国で作った牛の飼料を、B国でもC国でも牛の飼料として使うことができる。つまり、例えば北海道にある1軒の酪農家が、世界の情勢や経済と繋がっていることがより明確にわかるのです。小林先生の専門分野である「農業経済学」は、酪農という視点を持つことでより分かりやすくなるのです。
酪農を通して農業経済学入門を解説すること。そして酪農家という生き方を伝えること。
この2軸が立ち昇り、本の構成がぼんやりと見えてきました。まず「座学編」として農業経済学入門を、次に「実践編」として生の声を入れていきたい。
この日に全て決まったわけではないけれど、そんな風に骨組みを考え始めていったのです。
■執筆:柿本礼子(かきもと・れいこ)
東京都立大学大学院でフランス哲学を修了したのち、フリーライターへ。日経ホーム出版社(現・日経BP社)の月刊誌『日経WOMAN』編集部に在籍後、再びフリーランスに。「食」を社会的に捉え、伝えることをモットーに、雑誌への寄稿や書籍編集、コンサルティング業務等を行う。
次回は編集者の柿本礼子さんによる「『牛乳から世界がかわる 酪農家になりたい君へ』|編集こぼれ話④」をお届けします。