ストーリー30 サーバントの模範となったイエス・キリスト
サーバントの価値観は、イエス・キリストに見られるものです。事実、「受けるよりも与えるほうが幸いである 」というのは、イエス・キリストが語った言葉として聖書に記されているものです。
イエス・キリストは十字架にかけられる前の晩、弟子たちと共に最後の食事をしました。その席でイエスはおもむろに立ち上がり、弟子たち一人ひとりの足元にひざまずいて足を洗い始めたのです。その姿は、まるで仕えるしもべのようでした。食卓に招かれる客は、歩いてホコリだらけになった足で部屋に入ってきます。その足を洗ってきれいにし、食卓にお迎えするのがしもべの仕事でした。このとき、イエスはまさにしもべになって、手ぬぐいを手にとって弟子たちの足を洗ったのです。弟子たちには、非常に大きな衝撃でした。自分がイエスの足を洗うことはあっても、まさか自分の足を洗っていただくとは!まちがってもありえないことでした。
「主であり、師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのであれば、あなたがたもまた、互いに足を洗い合わなければなりません 」
弟子たちはイエスの言葉を胸に刻みつけました。その姿を思い起こしながら、賛美歌の詞に表現しました 。
キリストは神の御姿である方なのに、
神のあり方を捨てられないとは考えず、
ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。
人としての性質をもって現れ、自分を卑しくし、死にまで従い、
実に十字架の死にまでも従われました。
神のひとり子であるお方が、赤ちゃんとしてこの世に生まれました。少年として成長し、青年として父親の大工仕事を手伝いました。人々に神の教えを説き、不思議な業で人々を助けました。地位ある者として財産を築いたわけではありません。権力をもって人々を従えたわけでもありません。たえず人々のために仕え続けました。
イエス・キリストは十字架刑で殺されました。神のひとり子が罪人として十字架にかけられるなんて、師が弟子の足を洗う以上にありえないことです。しかし、与えることを惜しまなかったお方は、全人類の救いのために自分のいのちさえ差し出し、与え尽くされたのです。
イエス・キリスト以前に、謙遜を美徳として掲げた人物はいませんでした。むしろ、卑しめられることだと理解され、できるだけ避けるべきことだと考えられてきました。しかし、イエス・キリストが自らの身を低くし、与え尽くすしもべの姿をとられたとき、謙遜こそが本当の美徳であることが初めて示されたのでした。