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非認知能力の発達について

「遊ぶ・学ぶ・育つ」のFBグループページは、全ての子どもの発達の保障のために、特に、子どもの権利条約第31条に記述されている「子どもの遊ぶ権利」を大切に受けとめ考えるために、遊びの場のみならず、学びや育ちの場にいる皆さんにもメンバーになっていただいて、それらの密接な関係性を検討し、大人として、子どもたちがそれぞれ健やかに育つ環境を保障したいと思って、立ち上げました。管理人の一人である武田信子は、特に第31条の取説であるジェネラルコメントNo.17 の価値観を知ってもらいたいと強く考えています。

 さて、現在、非認知能力に興味関心が集まる中で、非認知能力をいかに子どもに身に「つけさせるか」という論調でさまざまな記事や書籍が出始めていますが、非認知能力は「身につけさせる」という発想でとらえることが適切な概念なのでしょうか。
 非認知能力に関して、私が信頼をおいている研究として、東京大学大学院教育学研究科の遠藤利彦先生が研究代表者である、国立教育政策研究所の平成27年度プロジェクト研究報告書「非認知的(社会情緒的)能力の発達と科学的検討方法についての研究に関する報告書」がありますので、ぜひ、お読みいただきたいと思います。281ページに渡る報告書ですので、ちょっと無理という方は、第1部第2章だけでもお読みいただくと、近年の非認知能力を巡る議論の問題点が把握できると思います。


 この報告書では、「『非認知』なるものの教育の可能性を示す論拠の希薄さ」をとりあげ、「同様の教育的働きかけが、個々の子どもに対して異種の影響をもたらす可能性がある」こと、「深層に対する働きかけは…非現実的である」こと、「子どもが当事者として、まさにある問題状況に置かれている…リアルな経験を想起させたうえで、何らかの教育的働きかけを行うことがより有効である可能性が高い」こと、「根拠が伴わない形でいたずらに自尊心を高めてもあまり有効ではない」ことなどを指摘し、「非認知」の絶対的基盤に基本的信頼感とアタッチメントがあることの重要性を指摘しています。 
 そこで、今回ここでは、この報告書をざっくりとでもお読みいただいたことを前提に(この投稿は研究を前提としての記述が必要と考えているためです。多忙な皆さんはお読みいただくことは難しいと思いますので、上記に第2章のみ簡単に説明をしました)、特にジェネラルコメントNo.17 の項目42(筆者訳)を取り上げておきたいと思います。

42. 自由度のないプログラム化されたスケジュール:多くの子どもたちが、大人によって決められた活動をさせられ、第31条の権利に気がつく力を制限されています。自分でやりたいと思ってする活動の時間がほとんどあるいは全くなくなってしまうような、たとえば、強制的にさせられるスポーツ、障がい児のリハビリテーション、あるいは、特に女の子たちに課せられる家事などもそうです。政府による予算がつくのは、整えられた、競争的なレクリエーションであることが多く、時に子どもたちは、自分で選んだわけでもない青少年団体に参加するよう求められ、プレッシャーをかけられるのです。子どもたちは大人によって決められたり管理されたりしない時間を持つ権利があり、また、いかなる要求からも自由であるべき時間、基本的に自分でそうしたいと望まない限り何もしなくていいという時間を持つ権利があります。実際、何も活動しないということが、創造性に対する刺激となりうるのです。近視眼的に、あらゆる子どもの余暇の時間をプログラム化された競争的な活動に向けることは、その後の子どもたちの身体的、感情的、認知的、社会的ウェルビーイングを、損なう可能性があるのです。

 もちろん、時には、大人の意図が入ったプログラムが子どもの遊びに入ることも構わないでしょう。でも、現代の子どもたちの24時間を考えたとき、乳幼児でさえスケジュール化された生活、プログラム化された時間を強いられていることが少なくありません。多くの人が無意識に競争的な世界の中で生活している現代日本においては「ためにする」遊びや大人が「育ってほしい子どもの姿」を強調し、研究者がそれをすることが善であると親や教師、保育士に伝えることで、それらを目指す活動が子どもたちに課される可能性が生じます。その時、大人の受け止め方によっては、子どもたちの「意図しない」「自発的な」学びが生じる可能性がかえって低くなるばかりか、子どもの「好奇心」や「欲求」が阻害されることさえも懸念されます。

 そのようなことを考えていた時に、先日、ある「研究者」が執筆した記事が目に留まりました。そして、この投稿内容がよきものとして拡散されることには問題があると考えた筆者は、このグループ―ページでその記事をシェアしましたが、署名記事で個人名が入っており、個人を糾弾することが目的ではありませんので、約一日で削除しました(削除の経緯はFBグループページにあります)。 

 そこで、最後になりましたが、この件について、その記事内のいくつかの文章を引用(①②③④)し、問題点を指摘しておきたいと思います。
① 非認知能力は、友達と仲よくしたり、物事を我慢するといった、数値では測れない能力の総称のこと。小さい頃からこのような非認知能力を培っていかないと、孤独でいることを望む子に育ったり、自分さえよければいいという考えが強い子になるかもしれません。
 → 非認知能力の定義が極端で、例示にも偏りがあります。研究者としてどの程度、非認知能力に関する知見を持ってこの記事を書いたのかと疑念を持たざるを得ません。また、子どもがもし孤独でいることを望んでいるようだったら、それを「いけないこと」「そういう能力がない」と受け止めて「大人が能力を培うように仕向ける」のではなく、「どうして孤独が好きなのだろう」と見守り、その子が安心して人と共に過ごせるような環境を作っていくことこそが先にすべきことでしょう。
   また、自分さえよければいいという考え(心理学では自己中心性と言います)は幼少期には普通の思考です。さまざまな体験を重ねる中で徐々に向社会的行動(反社会的行動の反対で、愛他心による自発的な他者のための行動)が発達していくものですが、このように否定的に書くと、保護者が「物事を我慢する子に」「自己中心的でない子に」と短絡的に思考して、年齢や発達、そのように育ったそれまでの経緯を考慮せずに無理やり「しつけねば」「非認知能力を身につけさせねば」と動きかねません。

② そうした経験を遊びの中で積めるよう仕向けていくことで、非認知能力を学んでいくことができるのです。③ 何となく遊ばせたりするのではなく、こうした意図を持って遊びを提案していくと、子ども達は遊びの中で友達を大切にするようになります。④ 親や学校の先生が代わりになって教えてあげてください。いち早く取り組み、非認知能力のある子どもに育ててあげましょう。
 → ②③④のような発想によって、遊びが、(子どもより強い立場にある)大人の意図や目的が前面に出た「仕掛け」となる場合、しばしば起こるのが、子どもの受け止め方を無視してトレーニングのために遊びをさせるというような事態です。子どもは大人に定められた範囲の中でも充分に楽しそうに遊びますが、本来彼ら自身も気がつかないようなもっと自由で創造的な存在です。
   たとえば、ある企業による有料遊び場(世界から視察に来ると聞きました)のトランポリンに「トランポリンの遊び方と効用」というリストが(大人向けに)掲示されていて、10の遊び方が書いてあり、子どもが親にそれを順にさせられていたり、ある小学校(教育委員会から連続表彰を受けていた小学校)のすべり台の横に「すべり台のすべり方」という掲示があって、それ以外のすべり方はしてはいけませんとなっていたり(その小学校では1-2年生はとても元気なのですが、5-6年生はだる~~という姿勢で授業を受けており、中学校になると教師に反抗的になるということで、先生たちが校長室で、入学してきたときは素直な子たちがどうしてそんなふうになるんだろうと首をかしげていました)、ある児童養護施設で、心理の先生が「これから楽しく遊びましょう」と言ってから「楽しい遊びの時間」を始めたり、といったことが実際に起きているのを見ると、これから「非認知能力を高めるためには遊びが有効である」という言説がさらに流行して、心ある大人たちが、子どもたちを「よく育てる」ために「遊ばせよう」ということになるのではないかと本当に心配になるのです。
 さて、大人と子どもの間に基本的信頼感やアタッチメントが存在していれば、上記のような「作られた遊び」も子どもに受け入れられるかもしれません。この先生が教えてくれるんだから、きっと面白いよ、というふうに始まる遊びもあるでしょう。そうであってほしいと願っています。
 でも、それ以上に、子どもたちは充分に自由に遊ぶ環境があれば(その環境を用意することこそ大人の役割でしょう)、自然にその子に必要な非認知能力がついていくだろう、一人一人の子どもをよく観察していて、ここは介入することが必要だなと思った限定的な時にのみ大人が登場する程度で大丈夫だ、という子どもの発達に対する信頼を大人が安心して持てるような社会環境を創りたいものだと思います。

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