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しゃぼん玉の中には


愛ある生活にあこがれていたが
私は何かを愛しただろうか、子ども以外で
執着したものは
あっただろうか

あったのだと思いたいがそれは
自分の自我を確立するための人間関係であったと総括されてしまう
愛されることばかりを求めていた
愛することも「人間関係を作る」こともわからなかった

少女漫画のような恋愛にあこがれていたけれど
あれはただの創作物で。
とはいえ創作物なのだと理解できるまで時間はかかった。


諦めは良いんだ とうそぶいてみる

愛は努力 私にとって。
愛は「そのように」心を傾ける事
傾けることを辞めようとすると少しは負荷がかかるのだけれど

ちょっとしたおしゃべりは自分の支えにはなると思うが
基本ひとりが心地よい

全てが自分を含まない
眺めるだけのもののように思えたりする。

しゃぼん玉に入っているのが私なのか
世界なのか

正確に眺める事すら
叶わない




しゃぼん玉の中へは
庭ははいれません
まはりをくるくる廻ってゐます    ジャン・コクトー(堀口大学訳)

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