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詩の勉強会

カンニング

授業の時は折り紙を折った
時おりは漫画を読んだ
そうでないときはよそ見ばかりしていた
先生はわかっていて時々答えを言わせたが
ほとんど答えられたらしかった

学年末のテストの時に
カンニングを疑われたそうだ
よそ見ばかりの子どもがこんなにできるはずがない
隣の子の答えを見たのだろう と
けれど一問、私だけが正解した問題があったという
それを確認する前にできるはずがないと言われるとは
ずいぶん嫌われたものである

実は何も覚えていない
母が呼ばれていろいろいわれたという
母は毎年私の代わりに怒られていたらしい
私が覚えていることは
母から聞いたことばかりだ

   🚥  🚥  🚥  🚥  🚥  🚥

今回の勉強会に提出した詩である。
太字にした辺りについては、もう少し良い表現はないか
考えたほうが良い と指摘された。
そういうところがまだ自分ではよくわからないのである。
端的に書くとこうなってしまうのだ。美しくはないとはわかる。
当分 課題になりそうである。


今回の勉強会では
詩の題材にするのはどんなことか ということを何人かの人から聞けて
勉強になった。
ある人は、イメージを先に作って という。
また、絵や音楽の中に入り込んで言葉を作っていく という人もいた。
実体験のイメージから作っていくという人もいた。
表現を練りこんでいくということのようである


今回の私の詩については小2の時の実話である。
母から聞いたこともカンニング」ということも言いたいなら
最後の表現も工夫が必要と言われた。

作りこむとか練りこむとか 今のところよくわからない
精進せねば。

「変な子エピソードはあるんだけれど」とひとつふたつ披露したら、
面白いと言ってくれた人もいたが、3行くらいしか書けなさそうなのだった。


最近 五味太郎さんの番組を見ていたら
五味さんは俳句をたしなんでいるとかで紹介されていた。

五味さんはいちいち習わなくてもいいのではないかと言っていて
「指導者」を頼り過ぎる風潮はいかがなものかと。
一理はあるが
自分の表現を磨きたいと思ったときに教わるという選択はあると思う。
どうやって磨くのかわからなかったらダイヤも石ころのままかもしれないのだ。逆に言うとその辺の石ころでも、研磨するとちょっとしたペンダントくらいにはなる。(詩をアクセサリーとは考えていないけれど)

何を使ってどう磨くのか ということもあるが
磨いた方が良い箇所を教えてもらえるのは有難いと思っている。


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