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石垣りんさんの「くらし」

ふと思い出したら、頭の中で「獣の涙」と「鬼ババの笑い」が
混ざっていた。あれ? と思って確認した。

くらし   石垣りん

食わずには生きてゆけない。
メシを
野菜を
肉を
空気を
光を
水を
親を
きょうだいを
師を
金もこころも
食わずには生きてこれなかった。
ふくれた腹をかかえ
口をぬぐえば
台所に散らばっている
にんじんのしっぽ
鳥の骨
父のはらわた
四十の日暮れ
私の目にはじめてあふれる獣の涙


シジミ

夜中に目をさました。
ゆうべ買ったシジミたちが
台所のすみで
口をあけて生きていた。

「夜が明けたら
ドレモコレモ
ミンナクッテヤル」

鬼ババの笑い
私は笑った。
それから先は
うっすら口をあけて
寝るよりほかに私の夜はなかった。


石垣さんというと戦後苦労して働いていたというイメージがある。
暮らすこととは食べることだったのだと思ってしまう。

「食べていく」のは大変な事なのだ。

≪ちちのはらわた≫ というのも ちょっと気になっていた。
その父はどんな父だったのか。戦死してしまったのか。
家族のために働いて病に倒れたりした父なのだろうか。
肉食動物は、倒した獲物のはらわたから食べたりもするそうだが
人間はどうだろうか。
「余すところなく食べる」ということはあるだろうが。

ふくれたはら と言われて、
お腹いっぱい食べたという事よりも 餓鬼を思い起こしてしまった。
食べても食べても満足しない「餓鬼道に落ちた者」たちのように
お腹いっぱい食べる事食べさせることが大変だったのではないか。

獣にしろ、鬼ババにしろ 人ではないものに
誰しもなりたかったわけではない。


鬼ババというと山姥を思い出すのだ。
民話の中にも飢饉のさなかに人肉を食べて鬼ババになったというのがあった。
食べていくのは大変だ
生きていくのは大変だ

つい、「プラン75」を思い出してしまうのは
少ない年金でやっと暮らしている年寄りたちが姥捨て山に捨てられることを思ってしまうからか。

親を兄弟を師を食らって生き延びるのは誰なのか

結局のところ 鬼ババは順番に退治されていくしかないけれど。



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nobuko fj
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