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春にして君を離れ

アガサクリスティーの作品である。
汽車の事故で何もない砂漠に閉じ込められるように滞在させられた女性が
自分自身のことを少しずつ振り返っていく、という話である。

私がこの本を読んだのは中島梓名義の新聞の書評がきっかけだったと思う。もうずいぶん前だ。
何度も何度も読み返す本である と書かれており
こんなに作品をたくさん出している人に、何度も読み返す本があるのか
と思ったのだった。


まぁ 恐ろしい本だった。
殺人なんて起きない。
ただ、主人公ジョーンが「愛する家族」をどんな風に扱い
家族がどんなふうに、彼女のことを考えていたかということに
思い至るというだけなのである。
それも最初は「私がこうしてやったから夫は助かった」的な記憶を
思い出すのだけれど、あれ?と気づくことが出てくる。
あの時、夫はどんな表情をしていたか、とか。

自分が相手のためだと思ってしたことが
実はその相手の大切なものを諦めさせるようなことが多かったこと
自分のプライドや虚栄心の方が大切だったことなどに
少しずつ気づいていくのである。

いわば、自分の信じていた世界が、自分の思っていた世界ではなかったと気づくということだ。裏切られていたのだし勘違いしていた。
家族はみんな自分とは違う考え方を持っていて
自分に心から賛同し賞賛していたわけではなかったということ。

自分自身の事は、割り引いて考えるものだ。
頑張っていた私 ということである。
それがほんの少しだけの「過大評価」ならばよいが
「肥大した自我」みたいなものだったら他者には迷惑でしかない。

ジョーンは、砂漠でさんざん自分と向き合い、夫や子供を大切にしたいと思ったりするのだが、家がある駅に近づくにつれ、結局元に戻るのだ。


私はとても怖かった。
自分自身が気が付かなかった自分のいたらないところが
何かの拍子にわかってしまう事があるとは。
ジョーンのようにここまでひどいのはもう病気だと思いつつ、
自分がこんなんだったらどうしようと思ったのだ。


今思えば、怖かったのは自分が何らかの評価を欲しがっていた
という事なのだと思う。
「過大評価したい、しがち」な自分であるという自覚が
うすうすあったのだろう。
要するに、陰で嫌がられていたらすごくつらい という感じ。
自意識過剰である。


客観的相対的という言葉が常に自分の横にある日々である。
それとともに他者の声を本当に聴くということが必要なのだ。

ふと思い出すと、結果的に自分の意見が通っているのに
ちょっとでも反対された事実があると自分は譲ったように思ってしまう人を知っていた。他山の石にしなければならない。





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