写真好きの一人言『記憶と記録』
写真のことを学ぼうと思った時に、以前は〝写真の教科書〟といった感じの本を立ち読みしていたのだが、今ではネットで調べれば家にいながら様々なことを学べる。
とはいえ一番は〝撮る〟という実体験が最も勉強になるのだが、SNSを始めネットから学ぶことは多い。
色々と眺めていると写真に対する考え方も千差万別。
一人一人がそれぞれの考えで撮るのはその通り。
その数だけ考え方もあるのも当然。
その中でも私の興味のある写真を見ていて考えることがあった。
写真は記憶を記録する道具なんだろうか?
写真というものの歴史を振り返れば、事実を記録する為の道具として誕生しただろう。
文字の歴史が楔形文字や象形文字から進化していったように、写真・カメラの歴史も進化してきた。
今となっては、誰もが持っているであろうスマホにカメラが組み込まれている時点で、カメラに関わる人がいないと言っていいほど普及している。
さらにはカメラマン・フォトグラファーという職業自体も、成功する・しないは別として昔よりも気軽になれるものになっている。
そんな中、職業としてだけではなく家庭内でも思い出という大事な事実を記憶する際に写真を撮って記録として残している。
ならば、記憶は記録できるのだろうか?
正直、写真という静止画よりも動画として記録した方が事実が残りやすい。
それでも私自身がそう思うのだが、写真には動画以上に記憶・思い出が詰まっている気がする。
原理的には光を取り込み記録した物の集合体である写真。
〝影〟を〝撮る〟ので〝撮影〟
そこには事実としての光の情報しか残っていない。
それでも1枚の写真から蘇ってくる記憶は光の情報以外の物もやってくると思う。
その場の空気感、匂い、音(声や環境音)...
さらに撮影した瞬間の前後の行動。
不思議なことだが、記録として残っている写真から様々な記憶が蘇ってくる。
さらに言えば、自分が撮った写真ならば当時の状況を思い出す可能性はあるのだが、人の撮った写真を見ている時でさえ、その人が撮った瞬間の情景を感じる写真を見ることがある。
多分、そういった写真を撮れる人が(様々な解釈はあるだろうが)写真が上手い人と言われるのかもしれない。
まだまだ私はそういった写真は撮れない。
人の評価ではなく、自分の楽しみとして撮っているので別に気にしなくてもいいのかもしれないが、写真を撮る瞬間と見返す時の自分はある意味別。
十年前に撮った写真を見る〝今の〟私はあの時とは違う。
さらに、今の私が撮った写真を見返す〝十年後の〟私はまた違うだろう。
〝未来〟の私に〝今〟の私の残したいモノを写真という形で記録として残す。
その時に単なる〝記録〟としての一枚ではなく、それ以上の〝記憶〟を伝えられる写真を撮れるように考えていこう。