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持てるコミュニストが語る脱資本主義とTMのCAROL
逆説的に感じるかもしれないけど、先のことを考えるときに真っ先に考えるのは「前のこと」であって、それは要するにブランコで前(上)に振り上げるためにはその前に一度後ろに引くことが必要なのと同じなんだろうと思う。
先のことをあれこれ考えざるを得ない年度の変わり目なので、この時期は毎年「前のこと」に思いを馳せる。
そんな持ち主(ぼく)の頭の中を覗き見しているのか、ぼくの所要物たるiPhone(のApple Music)が今朝はTM Networkの『Carol』を勧めてくる。
一つのアルバムの中に、同じパーツを持った複数の曲が登場する(つまり、フレーズやコード進行などが、他の曲と共通の複数の曲がある)特異なアルバムで、当時としては画期的なメディア・ミックスの手法を取り入れていたアルバムでもある。(メンバーの一人木根尚登がアルバムと同名の小説を発表して、アルバムを通貫するテーマに沿った小説がその後確かアニメ化もされた?)
そもそもTMの音楽に通底するコンセプトは、「こどもの未知数のチカラ」だったり「普通に見えて普通じゃない」というヒーローやヒロイン的な思想があったと思う。
それが結実したのが、このアルバムなので、タイトルにもなっているCarolという名の女性は「どこにでもどんな街にも」溢れているようなありふれた名前だけど、「見えないチカラ」を持っている存在として描かれている。
満たされない気持ちで、自分が何者かもよくわかっていない「誰でもない誰か」が、実は誰も持っていないものを持っていて、誰もがなりたくてもなれない何者かになっていく、というテーマを、誰もが羨望の眼差しで見るような才能と活動で周りを魅了している人たち(TM)が歌ったり描いたりしている、というコントラストは、最近流行っている「脱資本主義」の言説が全然マルクス的な生活(就学、研究、活動)ではなさそうな人たちが語っているように見える違和感に似ている。(清貧でなければ資本主義を批判してはいけない、と思っているわけではないけど、北斗の拳のハートがスポーツジムのインストラクターをやっていたら違和感しかない、っていう話)
でも、中学生だった当時は、そんな違和感はまったく持っていなくて、「そうか、いつかぼくも「誰でもない特別な誰か」になれるのかもしれないなぁ」とぼんやり思っていたし、それの勢いが余ってシンセサイザーを手に入れるに至ったりして、結局その他大勢のうちの一人のままおよそ50歳になったわけだけど、あの頃(中学生の頃)の「ノストラダムスの予言があたらなかったら…北斗の拳の世界が来ないですんだなら、ぼくはきっと何かしら特別なことをしているんだろうなぁ」とぼんやりとした夢と妄想を抱いていた日々を思い出してしまう。
ほとんどの人が、ぼくと同じように、結局は「誰でもない特別な誰か」になることはなく、どこにでもどんな街にも溢れているような日々を送ってはいるものの、「誰かにとっては特別な誰か」であることも間違いないな、と思う。
ここ数週間、いろんな場面で「この人と一緒になっておいてよかったな」と妻を見て思う。
平野啓一郎の「分人主義」を借りて表現すれば、妻と一緒のときの自分の分人がいちばん心地よい。
少なくとも、家族にとっては特別な誰かでいられていることが、いろいろと滅入ることがあっても、「さて、朝の珈琲を淹れましょうか」と顔を上げさせてくれる。
久しぶりに聞いたTM Networkの『CAROL』を引き合いに出して、50歳近いおっさんがリア充っぽく書いただけです。失礼しました。