山際淳司「背番号94」と同人誌の思い出
子供の頃は小説家になるのが夢だった。子供の頃といっても高校くらいまでは思っていたから、結構本気だったのかもしれない。
当時通っていた高校には、学内に文芸の授業のようなものがあって、そこで学校文芸同人誌のようなものを作っていた。僕はそこに毎回のように何かを書いて出していたし、その幾つかはその号の先頭に並べてもらって、後から編集している先生に「その時好きだった作品を先頭に置いているんだ」と教えてもらって喜ぶなどしていた。
それでなくてもちょっとした作文コンクールのようなもので佳作程度の賞を取ったことも何度かあった。我流でからなのだから、自分も大学できちんと学んでそれなりに頑張ればものになるのではないか、となんとなく思っていた。
ところがある日、綿谷りさが「インストール」で、金原ひとみが「蛇にピアス」で鮮烈に芥川賞をとった。島本理生も候補に残っていたように思う。ちょうど3人とも僕と同い年か、一歳上程度の完全な同世代だった。
自分には才能があって、本格的に勉強したらきっと…なんて思っていたその時にもうプロの土俵で結果を出していら人がいた。それでも話題作りかもしれないとほのかな期待も抱きつつ彼女達の本を読んだ時、一気に恥ずかしい気持ちになってしまったことを覚えている。学校の同人誌で先生から良い評価をされた…そんなことで喜んでいた自分自身に急速にしらけてしまった。多分その時から、自分は何かを書くことをやめてしまい、せいぜい当時はやり始めたmixiに長めの日記を書くくらいしかしなくなったのを覚えている。
山際淳司の「スローカーブをもう一球」に収録されている「背番号94」を読んだ時、そんな自分自身のことが書かれている気がして、読んでいて少し冷や汗をかいたことを覚えている。
「スローカーブをもう一球」は表題の一作の他に、あの「江夏の21球」も収録されているスポーツドキュメンタリーの名著中の名著だけれど、僕にはその二つより、ドラフト外で入団した選手が乾いたまま冷めていく「背番号94」の方が鮮烈だった。
自分に白けたものから負けていくということ。格好をつけて周りにアピールすることを躊躇している間にチャンスが失われていくこと。また、元々ドラフト上位とドラフト外の差があるのだったら、遠慮をしていないで上位の選手より練習をしないともっと差がついていくということ。
何も始めていないのに勝手に負けた気がして勝手に恥ずかしくなって勝手にやめてしまった。
「背番号94」の中でクロダがシニカルに語る全てが、なんとなく当時の自分のことのようで、心がじくじくしてしまった。
自新卒でテレビ局で働き出したのことも思い出す。尊敬していた先輩が、深夜に好きな作品を一言一句文字起こししてみるということを夜な夜なやっているのを見て(当時のことであるので当然手作業だ)、「ああ、こういう人が成功するんだな(僕は違うな)」と早々に諦めたこともある。
思い出せば思い出すほど、読んでいて痛かった。
もう最初に読んだのは15年以上前だと思うけど、「背番号94」は、誰かと仕事をして「○○さんはやっぱりすごい」そして「自分にはできない」という思いが自分の中に走るたびに心のどこかにちらつくようになった。
その度に少しだけ嫌な汗が手を湿らす。
そのざらつきへのちょっとした抵抗が、今年になって書き始めているこのnoteなのかもしれない。
たとえ人の作品に乗っかっていたとしても、取り繕わない剥き出しの感覚を少しでも言語化できるようになったら。
何が変わるわけでもないけれど、何もしないよりはまだ心が落ち着いていられるから。