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映画「ルックバック」と村上春樹「1973年のピンボール」

僕の観測範囲であまりにも評判が良かったので、映画「ルックバック」を見てきた。僕はあまり映画を見る方ではないので大したことは言えないけれど、ただただ本当に良かった。58分という短い尺であることもあっていま時点では公開している映画館が少ないけど、これからもっと増えると思う。

見終わったあと、一緒に見ていた妻が「こういう漫画を描ける人が週刊誌連載で魂を削られているのはもったいない」と言った。ちなみに妻はチェーンソーマンは読んでいない(僕は読んでいる)。ルックバックの原作は2人とも読んでいた。

その上で、妻の感想は面白いと思った。妻は萩尾望都や田島列島が好き。僕は僕で松本大洋が好きなので、妻の言いたいことはわかる。

引き伸ばしや、アンケート結果による方向転換、過密なスケジュール…。パッケージとして優れた作品が作れる人がそういったことに引っ張られて作り込みができないのはもったいない、と、いうこと(藤本タツキ先生がそれで苦しんでいるかどうかは予備知識がない。ただ一般論として、だ)を妻は言っていた。急に終わったら引き延ばされるのではなく、過不足なくはパッケージとして完成した作品を作れる人は限られているのだから、と。

その話で言えば、僕はこの映画自体も、58分という1時間にも届かない枠で作ったことが英断だと感じた。原作がそもそも中篇読切くらいの尺であって、もしこれを他の映画のように2時間程度に伸ばしていたら、この感動はなかったと思う。
いくら昔のような大長編映画が少なくなったと言っても、お金を払って映画館に足を運んで、単発のオリジナル作品に58分で満足してもらえるか、売る上ではなかなか難しいように素人としては思ってしまう。

でも、原作に対して余分な付け足しがなく、必要なものだけがついて、その上でたっぷり間を取るべきところはとって…の58分で、満足感として物足りなさなんてまるでなかった。

だから、妻が言った感想はこの映画そのものにも言える気がした。中編を中編のままにとどめたからこそ傑作だった。

そういえば映画や観ている最中にふと、村上春樹の「1973年のピンボール」の文庫版の手触りを思い出していた。昔から本を読む子供だったけど、小学生の頃読んでいたのははやはり防寒物やミステリや歴史物、ストーリーが強いものだった。
中学生になって、はじめて学校の図書室に入ったとき、初めて手にしたのが「1973年のピンボール」だった。
理由はいくつかあって、なんとなく初めての図書館で借りる本は使い方に慣れるためにもサッと読み終える本にしたかった、それに相応しい薄さだったこと。「文学小説」的なコーナーに並んでいて、ちょっと背伸びをしたかったこと。村上春樹という名前は何か聞いたことがあったこと。その辺りだったと思う。

「風の歌を聞け」より先に続編を読んでいたあたり、本当に適当に手にとったんだなと今でも思う。

そこを入り口に、学校の図書室にある日本語作家の文庫本は全部読んだ。

1973年のピンボールも、あの長さだったことが完璧だった。出会いとして、入口として最高だった。ちなみに、その次に読んだのが江國香織の「きらきらひかる」だったことも覚えている。どちらも中編と呼べる長さではないだろうか。

文庫としても薄い方。漫画の単行本としても薄い方。映画として短い方。

それくらいの長さで、十分に没入させるし感情もゆらす。

確かに、その仕事は「週刊少年ジャンプ的手法」からは生まれづらいのかもしれない。
そこから生まれたコンテンツの一部を切り取って中篇くらいにしたり、もしくはIPを使って中篇にしたりするのは、東映まんがまつりみたいなもので昔からやっていたかもしれないけど。

それとは違う今回の映画「ルックバック」、新たなトレンドを作りそう。そんな気がした。

映画も最高だったけど、妻の感想も面白かったという、そんなお話でした。

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