東国三社巡り はじまってないはじまりの記録
何が始まりのきっかけになったのかをもう忘れてしまったのだが、東国三社巡りをさせていただいている。きっと、「何が」ではなく「流れ」なのだと思う。目の前のピースをはめていったら、流れが目の前に現れて、それをただ行動していたら、いつの間にかこういう事になっていた、というのが素直な気持ち。ただ、いつの間にか、と書いたけどそれはちゃんと自覚したいつの間にかである、ということは書き添えておきたい。なぜなら、まだときどき自分でも自分のことがよく分からなくなるときがあるからだ。「わたしは何をしているのだろう」とか、「これって何か意味があるのかな」とか、ふとした瞬間にそういう不安というか雑念というか、何か自分の士気を下げるのが上手なわたしの中の成分が表面に出てきて、心無い一言を投げかけるときがあって、そのたびに一瞬(或いはしばらくもやもやしたり低空飛行になることもある)、自分を見失うことがある。今、わたしは自分を見失うとここに書いた。ということは、その状態のわたしが【自分を見失っているわたし】なのだと自分で認めたということで、これは今回このnを書いているにあたり嬉しい副産物だといえる。なぜなら、自分の中からしれっとあの状態のわたしのことを【自分を見失っているわたし】だと名付けてoutputしてきたということは、普段のわたしがわたしだと認識しているわたしはもう【自分を見失っているわたし】ではないということになるからだ。
最初からぶっ飛ばしてしまった。noteを書くのが久しぶりすぎて、書くのが面倒くさすぎて止めようかと思ったけど、今回の《東国三社巡り》はどうしても文字での記録に拘りたいみたいなので、どんなにめんどくさいと頭が止めてこようととりあえず書いてみようと思い、とりあえず書き始めれば何とかなるだろうと自分のことを御そうと試み、そして今割とナチュラルに成功しているような気がする。改行とか空白とか考えてみたがとりあえずそれももう一旦横に置いておくことにした。そもそもわたしはこうやって長々と文章を書くのが好きだったわけで(脳内で再生されている言葉たちをそのままここに羅列するのが好き)、たまには自分にそれをさせてあげてもいいんじゃないか、と思ったのだ。
さらに、今回の東国三社巡りは、これまでにない修行みを感じている自分がいて、だからこそちゃんと記録に残しておきたいという気持ちが強いのもある。こんなに時刻表と睨めっこして、何度も何度も(ええほんとに訳が分からなくなるほど)シミュレーションを繰り返したことはかつて1度もないような気がする。三社をどう巡ろうか、交通手段は?とか、1人or誰かと?とか、一気にor分けて?とか、分けるならどう分けるのか、一気にってどう一気なのかとか。レンタカー借りるのか電車とバスと徒歩で頑張るのか、とか。そこに加えて、電車で動くならどういう流れで、バスはどうで、歩くのキツイみたいだからタクシーにする?とか、タクシー結構高いけどどうよ?とか。そういうことを延々考え、時刻表とGoogleマップと神社の公式サイトとかを延々見ながら、脳内で組み立てては壊し、行けると思いきや人が多すぎて乗れないとか、電車の本数が少ないとか、コインロッカー問題とか!
とにかく、問題と思えば問題なことが多過ぎて、頭から湯気が出そうになった。
でも、どんなに頭で考えても実際に動いてみることでしかわからないことがあるし、そのときの状況なるもの(しかもそれは随時変化する!)がある。それはわたしが何をどんなにシミュレーションしたところで、想定外でしかないものだ。それをどうにかしてシミュレーションしようとしすぎて、思い通りにいかせたいという自我の暴走わがままな自分の発露がすぎて(しかも途中までそれに気付かなかった未熟なわたし)、「えーい、もうどうにでもなれ!」と思った。正しくは、「なるようになる(し、なるようにしかならない)」と思った。どのようになるかは多分もう決まっているのだから、わたしにできることはただそうであるようにするだけなのだ。感覚で受け取って、目の前の出来事に集中して、ただ波長を合わせれば良いのだ。今に集中すると決めると、途端にまっすぐ道が見えた。それしか元々選べなかったことがわかりやすく明らかになって、心から有難く思えたし、素直にそれを選べる自分に嬉しくなった。そして、悪足掻きは適度なところでやめた方が、自分の精神衛生上良いということが心から腑に落ちた。
そもそも、神社に参拝させていただくときに、自分が何かをしようと思っていること(思い通りにしようと思っていること)が間違っている。流れの中で行かせていただけることになった。それを選ぶことが出来た。それを選んで、自分を連れてきた。たぶんもうそれで十分で、そのなかにわたしが何かをしたことは何一つないのだと思う。それなのに、なぜか自分が何かをしよう、為そうとしていたことに気付いた。ちゃんちゃら可笑しいのだが、今朝東京駅から総武線に乗るときまではそのことがすっぽり頭から抜けていて、わたしが為すという思考に取りつかれていたと思う。
だから、今回わたしはnoteを書きたかったのだと思う。今ここに書いたようなことは、スタエフで話してたらきっと話していない。自分でここまで深められたかも謎で、さらりと何も無かったかのように(そして実はこういうときは決して何も無かったことにはならないのがミソ)、時間が過ぎていったのではないかと思う。ただ、今の自分にはそれを選ぶという選択肢は恐らくないので、きっとどんなプロセスを辿っても今回はnoteを書くに至ったと思う。この感覚は間違ったプライドではなく、自己信頼であると信じたい。
さて、前置きが長くなりすぎましたので(←ここまでで2,357文字)、今日行った神社さんについてはまた別記事にすることにします。
全然オチないオチですみません。
おしまい(つづく)。
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