見出し画像

思考や在り方もまた「輪廻転生」する、永遠のループ

おはようございます。
のびたまごです。

やっと読み終わりました!
とはいえ、事実として読み終えた、という感じで“ちゃんと読めた”かというとまだまだそこには至れず...という感じなのですが、初読の感想をまとめてみました。


竹倉さんのご著書 『輪廻転生』

竹倉史人さんのご著書、『輪廻転生 〈私〉をつなぐ生まれ変わりの物語』拝読しました。
ホニャララLIVEを見てから今日まで、思ったより時間がかかってしまいましたが、わたしにとってはベストタイミングでした。この巡り合わせに、心から感謝いたします。

この本に出会ったのは、「ホニャララLIVE 003」を見たからです(リンク先はわたしの書いた感想noteです)。

で、ここから、この中でお話されていた「土偶の本」(ご著書の正式名称は『土偶を読む―130年間解かれなかった縄文神話の謎』です。先日発売されたところです👏🏻✨!!!)を読むまでに...!!と、『輪廻転生』を...と読み始めたわけなのです。

で、このnoteは『輪廻転生』の感想を書いてます。

※「土偶の本」のリンクも貼っておきますね☟


ということで、感想です、が。

冒頭でもふれたのですが、1度読んだだけでは到底理解出来ていると思えない。...というのが正直な感想です(´×ω×`)

わかったことは多いし、わかった気にはなっていると思うし、知らなかった知識や見識も増えたし、単純に面白かった!!!!!...というのもまた正直な感想です。

...ですが、それで終わりにするにはあまりに理解したというには程遠いほどの、いい意味での未消化感がわたしの中に残っていて、なんならわくわくしてしまっている感じなのですね。
関連するエビデンス、文献などなど読み尽くしてからもう一度読みたいくらいの気持ちです(さすがにそれはしないと思いますが、手元にある本で賄える知識くらいは賄ってから再読したいです)。

とりあえず、その時その時に感じたことは忘れてしまうので随時tweetしておいたので、それを中心にまとめ直して、感想第1弾にかえさせていただこうかと思っております。

わたしは多分過去世においてカトリックとものすごくご縁があると思うのですが、きっとそういう観点から見ても常にどの時代においても自分は「異端者」なんだろうな、と強く感じました。
もう持って生まれたというか、魂の性質?画像なのでしょうから(だってどちらか今選び直させて貰えたとしてもわたしは「異端者」を選ぶから)、仕方ないなぁとも思いました。

さらにいえば、カトリックの中では「異端」であるのに、「カトリックの中に心霊主義のすべてが包含されている(p.112-120)」という話の下りが好きすぎました(好きとか嫌いの話では無いと思いますがあえて)。これは、何が根本にあるかによって「異端」の定義が変わったり、全体(母集団)をどこに定義するかによって、物事の考え方やその価値までもが変わってしまうということでもあり、違いは違いであって違いでないという、その更に奥にある概念というか真理?へ近づくための大切な気付きになるのではないかな、と思いました。

では、ここからはtweetのまとめなおしいきます!


感想をまとめなおしてみる。

さっきも書いたのですが、内容が濃かったり知らない言葉(定義、概念)が沢山ででくる本は、その時その時に感じたことをメモしておかないとどんとん忘れてしまうので、随時tweetしておいたんですね😆
なので、それを中心にまとめ直したのがここからの文章です。


このツイートからはじまりました。

なのですが、これはプロローグしか読んでない時点で書いたのものだったので、果たして最後まで読んでこのままかどうかがあやしくなってきたというビビりtweetをすぐにして、それから読み進めました。

結局、日本語の認識の違いだった模様(つまり杞憂に終わったということですね)。言葉に対して自分が持っているイメージ(解釈)が先行してしまい、読み進めるにつれその解釈が違った場合は全く違うことを自分は言ったことになる(自分の中での体感は同じでも言葉が違うと話が違ってしまうので)から、それを避けたいという思いが強くありました。

自分の中でもきちんと理解したいし、同じ本を読まれた方々ともきちんと話が出来るようにしたいので、ここはやはり共通言語(本の中に出てくる言葉を正しく使うこと)を意識しました。


第1章 再生型-自然のなかを循環する人間-

第1章を読み終えた時、わたしは正直魂への冒涜(死者、もしくは個への冒涜?)みたいなものを強く感じて、なんでしょう...〈再生型〉の輪廻転生について、心からおぞましさを感じました。

縛り付けられるというか、その世界から出られないことへの苦しみというか...でも、その世界ではそれが良きこととして、“自然”の理として(生命における自然な在り方とは異なる、ここで書かれていた世界においての“自然”です)行われてきた呪術的な儀式、“しかるべき操作”としての儀礼は、生命の巡りを歪めることであるという認識があった上でそれも含めて“自然”だと考えられていたのかどうかが気になりました...。

また、それをしてもしなくても実は同じように〈再生型〉の輪廻転生は起こっているのではないか?とわたし個人は思うのですが(人の想いは強いと思う=ここがわたしが〈リインカネーション型〉を支持していると思う所以ですけど)、それをここでいいはしめてしまうと作者の意図(〈再生型〉〈輪廻型〉〈リインカネーション型〉と分けられている理由)に反するとも思ったので、この話はこれで終わりにします(´×ω×`)


第2章 輪廻型-古代インド起源の流転の思想-

最初から話が大きく本編からずれるのですが、『輪廻転生』とは、魂の生まれ変わり(その中にも大きく3つある)のことで、生まれた瞬間から息を引きとるその間を「生」といい、それを輪廻し続けることをいう、と思ってきたけど、ここにきて違う考えが浮かんできました...。

それは、この「生」の間にも、わたし(たち?)は何度も「輪廻転生」をしているんだ、ということです(あまりに衝撃的な気付きだったので、タイトルにもしてみました( ˙-˙ )

業(カルマ)が解消しない間は輪廻転生したとしもそれを繰り返す...って、そこに「生と死」を絡めなくても、今生きている自分が、この瞬間も、表面だけ解決したり見て見ぬふりして過ごしてると、また(というかなんども)目の前の課題あるいは(問題・テーマ)に向き合わなければならなくなる、というのと同じかも、と。

これはそういう考え方がある、とか概念の話ではなくて、今生きている日常の中に、既に「生」も「死」も「輪廻転生」も存在しているし、わたしたちは日常的にそれを体験している、ということで。

そう思うと、何やら根底からなにかが崩れ去るような、そもそも初めからそうだと知っていたような、なんともいいようのない不思議な感覚に全身が包まれるような感覚になりました(これを書き直している今はそれは少し薄れてしまっています)。

この感覚の中で水浸しになっているような気がする、と。
自分はこんな世界に生きていたのか、みたいな。
はじめて目が覚めた、はじめて光をみた、それくらいの衝撃。

この“感じ”が、この日のyujiさんの星しらべ(からわたしが受け取った感覚)とも、自分がこの日の朝に引いていたタロットカードの感覚とも繋がっていて、これまたなんとも不思議な感覚でした。

この“感じ”をどうにか言葉にしてみると、蜃気楼的というか...境界線があやふやというか、何か実はずっとあったけど自分は知らなかったor関係ないと思っていた世界の理みたいなもの。

あまりうまく言葉にならない感覚でした。ただ、これが【ACE of CUPS.】のカードがわたしにこの日の朝教えてくれていたことだったのかと思うと、なんだか身震いしてしまって。。。

わたしたちは、すごい世界に生きている。見えない巡り、理、世界、そんなものの中で、生きていさせてもらえている。生きること、受け取ることが、与えられ許されてる(同じ意味で使ってます)。なんだかそんなふうに感じて、しばらく何も考えられず、ぼーっとしてしまいました。

さらに読み進めていくと、〈わたし〉という概念の話が出てきて、またうんうん唸りながら読むことになるんですけどね(笑)
それは、おこがましいかもしれないけどあえてこう表現したいのですが、自分の中に既にあった感覚と、本を読むことで新たに得られた知見とを混ぜ混ぜしていくから起こることなんですね。自分と本との間で、その空間の中で、知識の錬金術的なことが起こるんですよね。

で、その結果が、〈わたし〉という概念と、〈実体〉、それは、『無常』の概念ともつながるなぁ、って思ったということなんですが。

今、ここにあっても、いつかはなくなるなら、それは〈実体〉ではない、という考え方は個人的にはずっと前から持っていたもの(育った環境要因多め)であり、言葉が感覚と結びついてからは尚更そう思うことが多くなってきた感じがあります。あれ?逆かな??感覚に〈言葉〉が結びついた(しっくりきた)というのが正しいかもです。

では、『not無常』ともいえる〈わたし〉とは何であるのか。

〈わたし〉を定義するには「わたし以外」が必要不可欠であり、〈わたし〉のみを単体で証明したり、説明することはやはりできないんだなぁ...と思いました。

仏教における〈わたし〉とは、業(カルマ)により浮かび上がるものであるが、それは〈わたし〉とは一致しないというのがものすごく腑に落ちたし、〈わたし〉イコール業(カルマ)でもなく、業(カルマ)イコールわたしでもない、というところに全く交わらない2つの世界の違いを、この第2章、特に仏教的な観点から語られた「輪廻転生」を通して強く感じました。


第3章 リインカネーション型-近代版生まれ変わり思想-

とうとう〈リインカネーション型〉について書かれた章に突入!
※第2章に引き続き、第3章もちょっと気合いが入りすぎてて、めちゃ長いです💦

ほどなく、「コックリさん」がでできてびっくり。

わたしは、子どものとき、「コックリさん」をして遊んでいた。本当に10円玉動くんですよ。そして、言葉か浮かび上がってくる。そもそも、なんでしようと思ったのかまでは覚えてないんですけど、うちの家の炬燵の中で、友達2人と頭を突っ込んでやっていました😂

ちゃんと3人でやってるし、なかなか今思い出しても興味深いなぁ。。。魔法とか魔術(呪術)系のことはやはり昔から好きだったんだ、と再確認😅

そしたらもう、この章で出てきた『霊の書』は至極当然のように読みたくなってしまうし、やはり聖書もきちんと読みたい。...したいことがどんどん出てくる。inputだけだと、一定のラインを超えたときに頭が狂いそうになってくるので、outputも必要だし。だから毎日タロットひいているのかな。

と、話は脱線(いつもの如く)していますが、元に戻しまして。

さらに読み進める中で、人間としての意識(視点と言い替えてもいいと思う)と、魂としての意識(視点)は全く違う、ということを改めて感じました。
そして、それがときにものすごい矛盾を孕むということについて、いい意味でなんとも言えない(言い難い?)気持ちになって、そこから、このなんとも言えない、をいつか明確に言語化出来る日がくるといいなぁ、と思ったんですよね。

今の自分では言語化できないこの感覚を言語化できる自分になったとき、自分はどうなっているんだろう。何を考え出るんだろう。何も変わらないけど何かは変わっているだろうそんな自分に逢ってみたい。そして、いまこういうふうに自分のことを捉えたり、考えたり、したいことを言葉にして表現してる自分っていいな、と思いました。なんか軽いな、って。

次にビビビときたのは、〈進歩〉か〈退歩〉か、という言葉(概念)について。
〈退歩〉という言葉は初見だったけど、そうか、退化ではなく〈退歩〉というのか...と妙な納得感がありました。でもこのふたつもまた、同時に存在しうるし、同時に存在しえないともいえる。

もしかしたら、錬金術的な思考をするとわかりやすい気がする...???と思ったんだけど、それをわかりやすく手順を追って言語化するだけのキャパがいまのわたしにはないんですね。お恥ずかしいことに(´・_・`)

この辺りまできて気付いたのですが、本の内容が濃すぎて、たくさんの未知がわたしに手を変え品を変えやってくる、みたいな感じなんですよね。わたしのキャパをはるかに超えたすごい知識の波が繰り返し繰り返し寄せては返し、寄せては返していくように感じるので(しかももちろんいい意味ですが容赦がない)、頭が飽和してふわふわしてしまう...( ˙-˙ )( ˙-˙ )( ˙-˙ )

...つまり、この本読んでて浮き彫りになってるのは自分の言語化能力の伸び代(あえて良い表現で書いてみた)と、圧倒的知識の足りなさ。。。

なんか悔しい(分不相応なんですが!それは自明の理なんですが😭!!!)。

あーーーー、どうやったらこの不協和音がスッキリするのかなぁ。。。

ひたすらinputとoutputを繰り返すしかないんだろうな。うわーん😭

と、こんな感じで、自分の不足にフォーカスしてしまってる部分がめっちゃあるので(そして気持ちを切り替えつつ何回か読み直しながら読んでるんですがたぶん切り替えきれてない)、純粋に「本」を読めてないんだろうなと思うとそれもまた悲しい😭

わからないってくやしい。純粋に土俵に上がれないってくやしい。わかっててないうちに出る疑問も大切だけど、わかっているからこそ出てくる疑問がある。早くそこにいきたい。でも、何も知らないくらいのpureさはなくさずにもいたい。
...わたしってわがまま😆!!!でも、悪くないなぁとか思ってしまった。小賢しい、でもそれもわたしだからな。分不相応でも、それがわたしなんですよ(これあとからめっちゃ後悔したらどうしよう!...もうここは若気の至りってことでドロンしよう🍃)。

...とまあわたしの脳内ダダ漏れは一旦放置して(苦笑)、さらに本の内容はここから「世界の終末」へと続き、わたしの脳内では『X』が再現されはじめている...(あれ、またダダ漏れでは...🙂)。
※余談ですが、『X』は漫画です。CLUMP作品。今は止まってるけど連載再開を待ち望んでる作品の1つ。

今度こそ!話を戻していきたいのですが、ここでまた学生時代に出逢った啓蒙思想という概念に再会したんですよね。なんかもうどうしたらいいのかな(脳内大混乱)。
なんかもう立て直すの無理そうですね...( ˃ ⌑ ˂ഃ )


ということで、Twitter上でのつぶやきはここまで(なのでまとめもここまで)。
ここからは、本を読みながらの都度記録、都度考察、都度脱線をそのまま書いていきます。
なので、話がものすごく飛躍したり、自分の話になっていたり、文章が結構ぐちゃぐちゃです(第三者視点が常に入っていないので)。

ということで、続きを書きます
٩( 'ω' )و


混乱した頭を落ち着かせるためにも、啓蒙思想について、Wikipedia先生より引用してみたり。

啓蒙思想(けいもうしそう、(英: Enlightenment、仏: Lumières、独: Aufklärung)とは、理性による思考の普遍性と不変性を主張する思想。その主義性を強調して啓蒙主義(けいもうしゅぎ)ともいう[1]。ヨーロッパ各国語の「啓蒙」にあたる単語を見て分かるように、原義は「光で照らされること」である。自然の光(ラテン語: lumen naturale)を自ら用いて超自然的な偏見を取り払い、人間本来の理性の自立を促すという意味である。

こんな言葉だったとは...言葉だけ覚えてても意味がないなとものすごい衝撃を受けました。自分は啓蒙思想を支持しているといってもいいと思うし、それならばなおさらきちんと言葉の意味を知っておきたいとも思いましたね。

学生時代に習って、たびたびどこかで出逢って(見て)きたのかもしれないけど、やはり自分の好きなモノ(あえて書くとしたら魂レベルで魅かれてしまうもの、魅入られてしまうもの)というのは、何かしら心に引っかかっていて、いつかタイミングが合えばそのときに芽吹くのかもしれない。

さらにこの続き(連想?)で浮かんできた言葉は温故知新...。
自分の中でも「輪廻転生」、自分の中でも「温故知新」。この生きている今の中に全部ある。ぜんぶ自分事。

まさに、本編から引用させていただくならば、この言葉が相応しいと思いました。
サペレ・アウデー!

さらにここで、ものすごく好きだと思った文章を1部、引用させていただきたいと思います。

カルデイックが編纂したリインカネーションの思想は、心霊主義ブームのさなかに偶発的に生み出されたものではなく、その予型はすでに前世紀の啓蒙思想のなかに胚胎していたといえるでしょう。カルデイックの業績は井戸掘り職人のそれに比することができます。「1回生まれ」のキリスト教に抑圧され、西洋文明の真相を地下水脈のように流れていた再受肉への欲求を、心霊主義という〈憑依の技法〉によって地表へと汲み上げ、それを聖なる〈霊〉の語りという様式において近代社会に奔出させたのです。

そして、ここからの、ピタゴラスです。
そしてプラトン、さらにソクラテス...。

すごい流れ。もう脳が...( ˙-˙ )(以下略)。

もうまとまりませんので、今回はこのあとの第3章の内容については割愛させてください(ToT)


第4章 前世を記憶している子どもたち

この第4章のタイトルを見るなり、「かみさまとのやくそく」を思い出しました。自分が生まれてくる前に、空の上など、とにかく産まれてくる前の世界で決めてきたこと。両親も、人生も、すべて自分が選んで生まれてきている、という、いわゆる「胎内記憶」のある子どもたちのおはなし。

そして、研究を私財で支えた世界的発明家のくだりからは、以前「ホニャララLIVE 044」にゲストで出演されていた、OSIROの杉山博一さんのことを思い出しました。「日本を芸術大国に」というコンセプトを思い出したのももちろんなのですが、やはり誰かを支えたいとか、支援したい、したいことが経済的な理由でできなくなるというのを防ぎたい、だから同じ理由で困窮する人がいたら助けたい、と思うんですよね。それはことの大小に関わらず、みんなしたいと思うことなのかなと思ったりします。それを行動にするかどうかはその人次第だと思いますが。

そして、そういう気持ちの起源を遡っていくと、自分の過去の体験であったり、その人の心がものすごく動いたことに対して、人間は動きたくなる、それが原動力になるということ。

そして、その世の中には正解と認定されない(されていない)けれども、自分の中では限りなく「そうである」ということを証明するために、いかに沢山のことをしないといけないのか、ということについて。これに関しては、わたしは自分が今までの人生を通して常に取り組んできたと思うので、こう書かれていたことによってなんだから救われたような不思議な気持ちになりました。
以下、その部分を引用させていただきます。

したがって、ぜひみなさんひとりひとりが、「裁判官」となって、DOPSの提出する「証拠」を吟味していただければと思います。それは何かを「証明」する作業ではなく、自分にとってより合理的と思われる「事実確認」を選択し、「府に落とす」という作業になるはずです。

逆に言うと、「正解」とされていない「感覚」をふに落とす、証明するためにはこんなにたくさんのことをしなければならない、ということなんですよね。

これって不思議だと思いませんか。
だって、自分の中には“感覚”として既に存在してしまっているのに(急に胎内記憶を話し出した子どもの話を信じる信じないということと、事象としては同じだと思うんです)、理由のないものを理由づけなければならない。理由がないのが最大の理由だと思うんですが、そうはいかないこともあるのが、今の社会の中で生きるということで...。

風の時代になって、この辺りの考え方や概念についてはもしかしたらどんどん変わっていって、何十年後、何百年後にはこんなこと「証明」する必要が無いくらいに当たり前になっているかもしれない。でも、今は過渡期ですし、過去の歴史においてこの本に書かれているようなことー輪廻転生における〈再生型〉〈輪廻型〉〈リインカネーション型〉が示すようなことーが、実際に行われ、確認され、証明されてきたことも事実なんですよね。

それって、善し悪しではなくて、事象なんですよね。
そして、それが歴史的背景、環境、文化、国民性、民族性、時代など、たくさんの要因により受け止め方、在り方が違ったり、変化したりしている。

この当たりの話は、第5章の内容とも重なってくるかなと思いますので、やや中途半端ですがこのまま次に繋ぎたいと思います。


第5章 日本における生まれ変わり

やっと、第5章まできました...😭✨
感無量です...。日本では、輪廻転生の概念は3つともー〈再生型〉〈輪廻型〉〈リインカネーション型〉ー存在した、とのことです。

なんか、そうだろうなというよくわからない予感はあったので(だからプロローグ読んで自分はこう思う、と書いた後に躊躇してしまったとも言えますよね)、やはり日本人ってすごい民族だなと思いました。

続いて、長野県の唐渡宮遺跡(とうどのみやいせき)から出土したという縄文中期の埋甕(うめがめ)の写真を見、それにまつわる文章を読んで、ニキ・ド・サンファルを思い出してしまいまた脳が空想の世界へ...(Wikipediaのリンク貼ってます)。

また脱線しますが、わたし、ニキが大好きなんですよね。またまた余談ですが、タロットガーデン(イタリア、トスカーナ)はいずれ絶対に行きたい場所のひとつです。ただ、ここに行きたいと初めて思ったときは、全くタロットカードを引いてはなかったので(高校時代を除いて、しかもその時は高校時代にタロットしてたことも忘れていた)、不思議ですよね。

2015年に新国立美術館であった個展にも行きました。この時に見た、赤白2つの作品がバーーーっと頭の中に浮かんで、しばらく動けなくなってしまったんです。

この☝︎リンク先にある、「赤い魔女」という作品。

そして、こちらのリンク☝︎にある「白の出産、あるいはゲア」という作品です。

それからギリシャに行ったときにみて目が離せなくなったある作品(アテネ国立考古学博物館)を思い出しました。自分が撮った写真の中にはなかったのでネットで探しました。おそらくこのサイトの8枚目の写真で紹介されてるものだったような気がします。もう少しおどろおどろしかった気もするんですが、見たときの感覚が印象になってるのかなぁ。

これらの作品、全部おなじカタチなんですよね。気になる。

次に気になったのは「輪廻転生」と「因果応報」の違いです。ああ、たしかに、言われて見れば混同していたかもしれないなと。第1章〜第3章をふまえて、この第5章で書かれている「輪廻転生」と「因果応報」を考えると、「輪廻転生」は〈リインカネーション型〉、「因果応報」は〈輪廻型〉といっていいような気がします。そしてそれは大陸からやっていている、ということで歴史的背景とも辻褄が合う(なぜなら仏教は〈輪廻型〉だから)。そして、仏教色濃いめの環境で育ったわたしとしては、そちらの方に馴染みがあったからです。幼い頃はどうしても、知ってる言葉が少ない。それ故の弊害もありますしね。もしかしたら、幼いころ〜中高生くらいのわたしはその違いに「?」と疑問を持ったことがあったかもしれない。なぜなら、辻褄が合わないからです。そしてわたしは、この、“辻褄の合わない”ことがめちゃくちゃ嫌いだからです。

だから、先程第4章から一部引用させていただいた文章が大好きなんですよね。でも同時になぜ自明の理である“この感覚”を、わざわざ証明するために...(上に同じこと書いてるんで省力します😆)。つまり、この部分がわたしにとって芯であり真でもある部分と直結しているということですよね、だってこんなに何度もムキになっているんですから。

ただ、六道輪廻、という言葉もまた、その誤解をうむ、もしくは間違った認識に導いた一因であったかも知れません。六道の中で輪廻することが輪廻転生で、そこから抜けることが解脱だと理解していたので。この部分だけに関してなら、“言葉だけ”だと一応合ってる部分もあると思うんです。ただ、知ってる知識を集めて正解にして、そのままにしてしまってることがいかに多いか、多いかもしれないか、ということに同時に気付いてしまい、またぞっとしました。

今まで、どうにか理解しようとして頑張って、必死に言葉にしてきたものの中にも、そういう“表面だけ辻褄を合わせてわかった気になって終わりにしてる”ことがきっとある。そして、それは潜在意識に入り込んで自分を作る1部になっているかもしれない...これは本当に怖いことだなあ、と。。。
なんだか、脱線のレベルが壮大になってきたんですが、ただ、本当に「自分を明らかに見る」ということの大切さを目の当たりにした瞬間、気付きでした。

兵庫県の民俗学者、柳田國男さんの話も出てきて、そこにも触れたいのですがそれはまた(なぜなら書き終わらないから)。


さいごに。

すごい本でした。
全く、理解できたと思えないです。

エピローグの内容にも触れたかったのですが、今の自分にそこまでする体力と知力は残ってないというのが正直なところです。
適当にまとめて終わらせることはできるけど、そんなことは到底できず。なので、今回はこれで終わりです。

ただ、“これがわたし”ということを、自分が自分という魂を選んでいるということを、何度も何度も自分に問いかけ直させてもらえた本であり、何度も何度も、その答えを自分自身に答え続けた(応え続けた)、自分の中に響かせ続けた時間をつくるきっかけを与えてもらえた本でもあり、本当に、ただただ、すごい本に出逢ってしまった...という感覚がすごいです。

少し時間を置いてまた再読、もしくは勉強してまた再読...とにかく、何度も読んで、自分の血肉にしたいと思いました。

この本に出てくる人や場所、出来事、地名、などなど、ほとんどが過去のどこかのタイミングで興味があったり意識をひかれたりしていたことに何度も驚きました。
そして、その度に、それを研究してまとめて本にしてくださった竹倉さんの存在に、改めて尊敬と感謝の思いが、何度も何度も繰り返し湧き上がってきました。

本当に素晴らしい体験をありがとうございました。


続けて、『土偶を読む―130年間解かれなかった縄文神話の謎』も、全身全霊で楽しみながら、拝読させていただきたいと思います٩( 'ω' )و!!


この記事が参加している募集

よろしければサポートお願いします!!!いただいたサポートは、必ず循環させていきます!!!