『本屋のない人生なんて』本屋だからできることがある

近所に夜中まで開いている小さな本屋がある。開いているといっても、頑張って遅くまで営業しているという感じではない。店先に並べられた雑誌はかろうじて最新号だが、棚にある書籍は、すべて背表紙が日に焼けて色褪せている。そして店の奥では、本の山に寄りかかるように、おじいさんがひとり眠っているのである。

終電近い時間に前を通ることが多いが、老店主はいつも眠っている。客の姿も見たことがない。まるで時が止まっているかのようだ。書店が危機に瀕しているというニュースを目にするたびに、くたびれたこの本屋を思い出す。

街の書店が次々に姿を消している。書店がない自治体はいまや全国の約4分の1にのぼるというが、近年は都市部ですら書店の空白地帯が目につく。通い慣れた店の閉店の知らせを聞くことも珍しくなくなった。

本書は、逆風の中で模索を続ける全国の11の書店を追ったノンフィクションである。どうすればもっと本を手に取ってもらえるのか。地域にとって本屋が果たす役割は何か。そもそも書店の存在意義とは――。店主たちは自問自答し、試行錯誤を繰り返してきた。そんな格闘の跡が詰まった本書は、書店の話にとどまらず、「何のために働くのか」という本質的な問いへのひとつの回答にもなっている。すべての働く人に読んでほしい一冊だ。

書店の話題に限って言えば、いくら危機だと訴えても世の中には響かないかもしれない。「本屋がなくても別に困らない」人が大半だからだ。だが、書店がないと、確実に変わってしまうものがあるのも確かだ。

「書店業界には、書店は文化の灯りだから特別扱いしてほしいという人たちがいます。僕はそれはおかしなことだと思っています。書店だって他の小売業と同じですよ。でも、書店がなくなると、地域への打撃は大きいです。何より、地域の文化の質が変わります」

広島県庄原市東城町で、ウィー東城店を営む佐藤友則はそう述べる。
店の写真をみると、看板に大きく「本・化粧品・CD・文具」とある。いかにもどこにでもありそうな郊外型書店で、失礼ながら通りすがりに見かけてもあまり興味を惹かれないかもしれない。

ところが、ここは驚くような店なのだ。平日でも200人を超える客が訪れるという。人口約7500人の町でこれはすごい。しかも都会から離れた中国山地という立地でありながら、文芸誌『ユリイカ』のフェアにも挑戦しているという。これだけでも「地域の文化の質」が想像できてしまう。

本を売るだけでなく、この店では住民の困りごともしょっ中、引き受けている。「ケータイが動かない」と訪ねてくるお年寄りがいれば、SIMカードを入れなおして再起動してあげる。もちろん手間賃はとらない。

書店なのだから、本を求めに来るお客にだけ手厚く接していればいいのではと思ってしまうが、佐藤のスタンスからはそんな商売っ気はまるで感じられない。たとえば本屋では、親に連れられてきた子どもが退屈してしまうことがある。そこで手品を独習し披露するようになった。子どもたちに本屋を嫌いにならないでほしいという思いからだ。今では「てんちょうさん、まほう、やって」と子どものほうから寄ってくるという。

「僕は自分の物差しはどうでもいいと思っています」と言うように、佐藤はどうすれば相手が喜ぶかを第一に考える。それは客だけに限らない。保護者に頼まれて不登校の子をアルバイトで採用したり、町を離れて、不調に陥っては戻ってくることを繰り返していた青年を雇ったりもしている。ふたりは後にウィー東城店の主力として活躍するようになった。『ユリイカ』のフェアも彼らが提案したという。

だが、このふたりの育成にかけた手間ひとつとっても、佐藤のやり方は効率的とはいえない。このことについて問われると、佐藤はこれは「たらいの水」なのだと答えた。働き者で知られた祖母の口ぐせだった言葉だという。「たらいの水」の意味が気になる人は、ぜひ本を手に取ってほしい。人生に対する深い洞察にもとづいた金言である。

本の危機が叫ばれて久しい。本書で言及されていたので、ひさしぶりに佐野眞一の『だれが「本」を殺すのか』を読み返した。佐野は本の世界が「かつてない解体モードにさらされ」、「出版不況という言葉がもはや常套句」となった状況に対する危機感を冒頭から煽りまくっている。いま読んでもじゅうぶん面白いが、この本が出たのは2001年だ。あれから20年以上たっても、私たちはいまだに同じようなことを言っているのかと思うと、いい加減うんざりする。

現状を嘆いてみても何も変わらない。だったら、試行錯誤を繰り返すほうがいい。本書では書店主の独自の工夫も紹介されている。中でも心惹かれたのが、静岡県掛川市にある高久書店の「ペイフォワード文庫」の試みだ。

「毎月、ひとりの大人が中高生に読んでほしい本を10冊、選んで購入して並べることができます。見ず知らずの大人から未来ある若者へ本を贈るという仕組みです。興味を持った中高生は、誰でも無料でこの知らない大人からのプレゼントを持って帰ることができます」

店主の高木久直によれば、地元にUターンした若い起業家からの提案によって始まった企画で、数か月先まで予約で埋まっているという。

子どもを本好きにするのは、じつはそんなに難しいことではないと思う。自分自身なぜ本を好きになったのかを振り返ると、思春期にある本と出合ったことがきっかけだった。当時悩んでいたことを説明できる言葉が存在することを、その本によって知ったのだ。

多感な時期にこそ、本を読み終えた時に景色が変わって見えるような体験をしてほしい。そうすれば一生本から離れられなくなる。ひとりでも多くの子どもを本の世界に誘えるのなら、自分もこのような試みにぜひ参加してみたい。

本書を読んでいると、それぞれの書店に共通している要素がみえてくる。
それは、「熱」だ。

なぜ私たちは働くのか。それは、ほんのわずかでも、自分がこの世界に対し意味のある貢献をしていると、どこかで信じているからではないか。

単に儲けたいのであれば、この時代に本屋をやるという選択肢はない。だが、店主たちにはそれぞれに本屋を始める理由があった。そして逆風の中にあっても、本屋という営みを続けている。なぜやめないのかという問いは、たぶん愚問だろう。この場所や、この地域、この世界に、本屋が必要だと確信しているからこそ彼らは続けているのだ。

ここへきて書店の閉店ペースがさらに加速している感がある。だがその裏で若い店主らによる次世代の魅力的な書店も誕生している。面白いのは、若き店主たちが、先行する魅力的な書店の店主ともつながっていることだ。先輩の言葉が後輩の背中を押し、さらにその思いが次の世代へと伝わる。「熱」は、世代を超えても受け継がれる。

著者は11の書店に「民主主義の手触り」を感じたという。この社会にいろんなひとりひとりがいるのを認めるのが民主主義だとすれば、取材した書店は、そこからこぼれ落ちた人の小さな声をすくいあげるような本を取り揃えていた。「ひとりである自分を肯定し力づけてくれる、それが書店という場所」という著者の言葉に深く共感した。

必要だと信じる人がいるかぎり、本屋はなくならない。この「熱」は、最後の希望だ。

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