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生前の自分と1985日航機墜落事故と2024日航機衝突事故

「あけましておめでとうございます!🌅」
とは気持ち晴れやかには言いにくいなと感じた年明け

能登地震の心配も募る最中、
緊急速報で映し出された羽田空港の滑走路

暗闇の中、大炎上している飛行機を消火する多数の消防車
海保の飛行機との接触の映像が何度もリピートされる

この瞬間、両機共に搭乗者の無事を祈った

18分間で379人全員脱出出来たのは凄い事だ
しかし、貨物室にいたペット達と、海保機からは6人中5人が亡くなった。


映像を観ながら、
父から聞いた話の記憶が蘇る



1985年
自分が生まれる約1年前


長崎県出身の母は、
友人の結婚式を通じて知り合った父と結婚

母は埼玉県へ嫁いだ

1985年当時、
営業マンとしてバリバリと働いていた父は、出張も多く、飛行機に乗る事も多かった。

とある日、
父は仕事でバタバタしていて体調も悪く、搭乗予定だった飛行機にどうしても間に合わなかった。

仕方なく、翌日に便を振り替えた父は、
乗るはずだった便が墜落した事をNEWSで知る。


1985年(昭和60年)8月12日
日本航空123便(ボーイング747SR-100型機)乗客乗員524人のうち死亡者数は520人、生存者は4人であったこの事故は、日本航空123便墜落事故として世界中を震撼させた。


もし、父が搭乗していたら、、、

今こうやって投稿する自分は居なかっただろう。


38年前の墜落事故

毎年、8月9日の長崎原爆記念日を過ぎると、
日航機墜落事故があった御巣鷹山への参拝者の映像を幼い頃から何とも言えない気持ちで観ていた。


2024年
緊急事態で自分勝手に脱出しようとする乗客もコントロールしながら、同様の事故は再発させまいと迅速且つ的確に対応したJAL機長をはじめとしたCAやスタッフの方々を賞賛する声がやまないのは必然だと思う。


37歳となった自分

あの時、翌日に便を振り替えた父に心から感謝したい。

「今まで出会った人達の想いを紡いでいく事は出来ているのだろうか?」


「これは本当に自分が心の底から納得できるか?」
と考える時に、1985年の出来事を思い出す。


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