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『ラストマイル』みた

 みた。

 自分が創作をするとき、その舞台となる世界や出来事は限りなくファンタジーにすることが多い。なぜかといえばそれは現実がカスだからだ。失礼、汚い言葉を使ってしまった。自分が生きている現在、この世界、この次元、この時間が最悪でどうしようもないから、そういったものへの怒りや悲しみや憎しみや苦しみを原動力として、そういった「今このとき」から離れられるための物語を創る。つまり逃避のための創作だ。自分で創る以外、読んだり見たり遊んだりするのでもそういった物語が好きだ。ここではないどこか。それは宇宙でも地獄でも魔界でも過去でも未来でもどこでも構わない。「今このとき」以外のどこか。それらの物語に触れるとき、束の間自分は自由になる。もちろんその自由は気休めに過ぎない。それでも。その気休めがあるからこそ、映画館の外に待つ現実に帰っていくことができる。現実と向き合うための逃避、というわけだ。

 映画『ラストマイル』はここまで書いたこととは真逆の映画である。舞台となるのは、物流、労働、成果主義。企業、雇用、搾取、そして行き場のないストレスが溢れる現代。まさに私たちが生きる「今このとき」と地続きの世界だ。その世界で、巨大物流倉庫に赴任した新たなセンター長が同僚と共に自社の荷物を狙った連続爆破事件の謎を追う。

 我々の世界と地続きであるから、この映画は終わらない。いや、連続爆破事件の犯人とその動機については一応決着はつく。つくが、それだけだ。自分の番がきた「センター長」のこと。ベルトコンベアーを見下ろした「彼統括本部長」のこと。「彼」が止めたかったもの。「彼女」が生きた意味。それら全てをそのままにして映画は終わる、いや、終わらない。彼らの人生が「今このとき」のどこかにあるような気がしてしまう。彼らについて考えることは、彼らが生きている世界について考えることと同じことで、だからスタッフロールが流れきり、明かりがつき、劇場の重い扉を開けたと同時に現実と向き合わざるを得なくなる。

 ところで、物流倉庫のカットがすごく良かった。ベルトコンベアー、その上を流れていく荷物、鳴り止まない金属音、倉庫の外では入場用ゲートに整列する人々、放送の声は勤務態度によってはペナルティを与えると訴えながら、労働を促す。ディストピアのような光景だ。ディストピアを舞台にした映画だと、人の力、心の力で打倒したりするものだが、この映画ではそういったことは起きない(人と人との繋がりや人を想う心は描かれるが。)期間不能点。レールの上に立った私たちはもう戻れないところまで来てしまった。ではたどり着いたその場所で、自分達が生み出したはずの網の中に囚われている我々は、どうやって生きていけばいいのだろうか。『ラストマイル』は問いかけてくる。ではその答えは。あるのだろうか。考え続けることが答えなのだろうか。だとしたら、それは映画を見た一人一人で変わってくるはずで、だからこれから書くのはあくまでも私の考えです。

 想像することしかできないのではないかと思った。
「情報」へのアクセスが手軽になり、調べれば(時には調べなくても)答えが提示される世界で、唯一出来ることは想像することだけではないのだろうか。
 この映画で描かれていることで言うのなら、自分がショッピングサイトでポチッたその瞬間、その先に多くの人たちの仕事が存在するということ。そのことを理解はしている。分かってはいる。だけど想像したことはあるだろうか。巨大な倉庫の中で働いている人たちのことを。自分の頼んだ荷物がどのような経路でどのような人たちの手によって運ばれていることを。スマホの画面に表示される「出発しました」「到着しました」の間にあるものを。作中に何度も登場する宅配ドライバーの親子の姿がまさにそれだと思う。彼らは生きていた。生きて、悩み、そして自らの仕事を果たしていた。自分の知らない、おそらくこの先出会うことのない人々の働きが、生活を支えてくれている、ということを想像する。そうするだけで世界の見え方が少しだけ変わるかもしれない。

 熱っぽく語ってしまった。落ち着いて話すと「想像すること」はあくまでこの最低な世界に変化を与える(とても小さな)きっかけ、ステップの一つなのだろう。映画ではもう一歩先へと足を踏み出している。主人公である舟渡エレナ(言いたくなる名前!)が自分のオフィスを飛び出し、下請けの配送業者やお客さんのところへ直接出向いていくシーン。電話でしかやり取りをしていなかった、顔の見えない相手と顔を合わせることで、彼女(とその物語)は前進していった。
 想像し、行動する。
 書くことも言うことも簡単だが、実践するとなると難しい。フィクション『ラストマイル』の世界でさえ、爆弾が配達されて、しかもそれが爆発するまでは出来なかった。果たして私たちにはそれができるだろうか。それもまた想像するしかない。できることからやっていくしかない。

「想像すること」は外の世界に対してだけではない。それは自分に対しても言えることだ。自分に今、何が必要なのか。自分が今、何をしているのか。そして自分が今まで何をしてきたのか。劇中の登場人物たちは爆破テロ、という極限状況の中で必然的にその問いに向き合わなければならなくなる。

 What do you want?

 架空のショッピングサイトが投げかけてくるその問いは、きっと映画を見ている私たちにも宛てられている。答えは人の数だけ存在する。はずだ。日々加速する生活のスピードに流されて、自分というものを見失ったほうが楽になる社会で、立ち止まり、自分自身に目を向けることは難しくなりつつあるのかもしれない。
『ラストマイル』にはゲストとして『アンナチュラル』『MIU404』という2つのドラマのキャラクターたちが登場する。彼らは自分と向き合い「想像」しながら生きているキャラクターであると思う。この辺りは完全なドラマファンの贔屓目です。が。あえて言うのなら、彼らにはそれぞれのポリシー、揺るぎない信念がある。彼らはそれに従い、行動する。その信念とはいったいなんなのか、彼ら彼女らがどのように自分自身と向き合いながらその信念を獲得していったのか、というのはそれぞれのドラマを見てください。後悔はさせませんよ。

 彼ら彼女らの信念に基づいたそれぞれの仕事が、事件解決の糸口となり、そして事件の背後にあった秘密を明らかにする。2つのドラマが仕事を通して人間を描いていたように、同じ世界観を共有するこの映画にも同じ視点で人を描いているように思う。この辺りの話は映画の宣伝も兼ねた出演者の対談でも語られていた(MIU404編だけ謎にムーディなのが面白いしそこが良い)

 お仕事映画、という視点でいうとラストにかけての、それぞれがそれぞれの仕事に誇りを持ち、行動を起こすことが結果的に新たな悲劇を防ぐことになる、というの流れはとても気持ちが良い。一連のシーンは、多くの人たちの仕事によって生活が守られていることを表しているようでもあり、同時に働く人たちへの敬意を表するシーンでもあると思う。特に「洗濯機」のところが好きです。プロでもアマでもなく自分で文章を書いて本を作っている自分にとっては「君のやってることにも意味があるんだよ」と言ってもらえたような安心した気持ちになりました。

 自らについて「想像する」ことは、自分を労わるケアの視点であるということも書いておきたい。この映画の最後の最後にスクリーンにある一文が表示される。

「心の悩みがある人は専門機関や支援団体に相談しましょう」

 ここまで長々と『ラストマイル』という映画について書いてきたが、この一文こそがこの映画の本当に言いたかったことなのではないか、と実は思ったりもする。人は簡単に落ち込むし、傷つくし、狂う。それは決して特別なことではないし、恥ずべきことではないのだ。

 少し話はずれるが。
 私は社会に出て、いじめにあった。人格を否定されるような出来事が起きて深く傷つくという経験をした。運良く自分はその環境を脱出することができたが、そのことがきっかけで、私は人と人とが分かりあう、ということは不可能だと思うようになった。それは今でも思っている。しかし、完全には人嫌いになることもできず、その心と折り合いをつけるように、分かりあうことはできなくても他人の想いや心を「想像」することならできるのではないか、と考えるようになった。そうして今も生きている。そんな自分にとって、この映画は「想像」することについて改めて考えるきっかけとなる映画だった。「想像」→「行動」と行くにはまだまだ緊張感があるし難しいかもしれないが、少なくともどこかの誰かについて「想像」することは必要なことだと思えた。

 『ラストマイル』は現実(ノンフィクション)と地続きのリアルな非現実(フィクション)だった。それは私が好きな、現実とはかけ離れた逃避のための非現実とは真逆の作品である。しかしそれはアプローチが違うだけで同じことをしているように思う。映画館の外にある現実(せかい)で生き抜くために、私たちは映画を通して現実から逃避し、映画を通して現実と向き合うのだ。それは映画という娯楽そのものの魅力、力であると思う。『ラストマイル』はその力に満ちた映画だった。いい映画をみた。

 むちゃくちゃ面白かったです!
(この一文を言うためにずいぶん長文を書いてしまったな)

おわり。

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