京都時代の中原中也の集合写真考察-5
古写真の撮影地の考察の続きです。
写真にあった斜面ときれいに整形された石で構築された石垣、背後に垂直な石垣などの地形的特徴の内、いくつか合致する特徴を備えていた京都霊山護国神社。この写真が撮られた大正時代は「霊山官祭招魂社」といわれています。文献によっては「京都招魂社」あるいは「招魂社」とも書かれたものもあります。
以下に京都霊山護国神社の地図を示します。
古地図からわかることは当時は入り口は西側にあり、社殿も境内北側に現在のよりも少しこぶりなものが建っています。境内南側には広場がみられ、また南側には木戸公墓と書かれた石碑と段差、正面と斜めに階段があります。実際には墓ではなく木戸孝允公神道碑が建っています。
尚、1929年(昭和4年)と1939年(昭和14年)に本殿、拝殿及び境内が大規模に改修され今日の社殿配置に近くなっています。現在では境内南側には社務所が建てられ、その南には斜面を開削し道路(維新の道)が開通しています。境内入り口も南側からとなり、向かい側にはや霊山歴史館が建てられています。
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