観た映画の感想 #100『流転の地球 -太陽系脱出計画』
『流転の地球 -太陽系脱出計画』を観ました。
『三体』の著者、劉慈欣の短編『流浪地球』の実写映画化なんですが、英題に”THE WANDERING EARTH Ⅱ”とある通り、実は2部作の2作目です。1作目はNETFLIXで配信されています。
なんですが、1作目も2作目も原作とは全然違う内容なので原作を知らなくても大丈夫だし、なんなら映画の2作目は1作目の前日譚なのでここから観ても大丈夫! という親切設計(?)です。
「もうすぐ太陽が爆発して地球も太陽系も滅びる! その前に地球に巨大なロケット1万個つけて太陽系脱出だ!」っていうところは原作も映画も同じなんですが、原作は太陽系を飛び出すまでの部分は割と年表的にあっさりめな描写なのに対して映画では原作で流した部分、あるいは原作の時間軸の更に過去の話を思いっきり膨らませてるんですね。映画1作目は木星の重力を利用してスイングバイする時の話、そして今作は1万個のロケットを設置して動かすまでの話。
要するに「原作には書かれてないけどこういうこともあったかもしれないよね!」という理屈で観られる映画なわけで、例えば宇宙世紀ガンダムのスピンオフが無限に作られるのと少し似てるかもしれません。「明らかに原作の同じ時間軸より科学技術発展してない……?」って描写が多いのも宇宙世紀ガンダムのスピンオフに似てる。(これについては後述します)
1作目を観た時にも思ったことなんですが、「劉慈欣のトンデモスケールSFをよくぞここまで実写化してくれた!」という気持ちが半分、でも個人的に思っている”劉慈欣SFの旨味”がすっぽ抜けてしまってるなあ……という気持ちが半分。でもこれは駄作だからとかではなくて、むしろ非常にハイクオリティの実写化だからこそ感じてしまうことだと思っています。
劉慈欣の作品、特に今作や『三体』のように太陽が爆発するとか銀河系がぺしゃんこになる(!)みたいな超絶トンデモスケールのカタストロフィが起きるタイプのSFにおいて”科学”って「この一手に賭けるしかない!!」っていう本当にギリギリの最終手段である場合が多い。しかもその一手が上手くいくことって実際はほぼなくて、なんなら「このまま続けても上手くいかないのは何となく分かってるが、それでもこの手に縋るしかない」っていう薄暗い絶望感が漂っていることが多い。
僕はそんな「科学にも限界はある」っていううっすらとした諦観に劉慈欣文学の魅力を感じているんですが、今作を観ると「あれっ、なんか意外と余裕あるな……」って感じがしちゃうんですよね……
映画の冒頭は主人公のリウがまだ訓練生の頃のエピソードから進むんですが、訓練の様子とか同期とのやり取りがまんま『トップガン』の訓練シーンみたいな感じなんです。要するに結構楽しそう。
その直後に起きるテロも大量のドローンをハッキングして地球エンジン(件の太陽系脱出用ロケットエンジン)や宇宙ステーションを破壊しようというものだけど、原作よりも過去のエピソードのはずなのに明らかに原作よりも科学技術が進んでる。やっぱり原作にあったギリギリ感がそんなにない……
科学技術と言えば、原作では脱出計画に対して太陽が爆発するなんて嘘だ、政府は地球人民を騙しているんだ、という「地球派」との対立が物語のキーポイントになっていたのが、映画では人間の意識をハードコピーしてデジタル上で永遠の命を得ようという「デジタル人間派」との対立に置き換えられてましたけど、これも原作の描写以上の技術水準だと思うんですよね。
勿論テロで甚大な被害は出るし、後半に進むにつれどんどん絶望的な状況になってはいくんですが、これだけの技術があるんだったらどうにかできちゃうんじゃないか……? って思ってしまう。これは(あくまで僕が思う)劉慈欣SFの味とは少し違うんですよねー……
ただ、先に書いた通りこれはあくまでハイクオリティな実写化であるから起きたことであると思うんで、こんな画面力のSF映画がアジアから出てきた! っていう驚きと喜びはあったんです。科学技術の水準の話にしても、例えばデジタル人間なんかは劉慈欣の他の小説にも出てきそうな設定だし、ポストクレジットでとあるキャラが見せる、ある振る舞いはそれこそ『三体』のとあるキャラっぽいし、劉慈欣イズムを放棄してるわけではないっていうのは伝わるんです。
原作を知ってただけに粗探しをするような目線で観てしまったのが若干勿体ない気がしますけど、SF映画としての画力は本当に凄かったです。是非!
この記事が参加している募集
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?