『死者への7つの語らい(1916)』
『死者への7つの語らい』の邦訳は、「ユング自伝2」の付録として収録されていて、これはユングの死後に発表された著作になる。
今回はその第Ⅵ章デーモンと第Ⅶ章人間に関する感想メモになる。
繰り返しの前置きになるが、この第Ⅵ章と第Ⅶ章はユング自伝2付録Ⅴに入っていて、紀元後2世紀の初期に実在したグノーシス派の教父バシリデスが、エルサレムから帰ってきた死人たちに教えを説く形式で書かれている。
河合隼雄著「ユングの生涯」によるとこうある。
ユングの心理学的基盤が完全に出来上がったものと評されるので、この付録Ⅴを本編より先に読んでいる。
◎ユング自伝付録Ⅴ、第Ⅵ章について。
第Ⅱ章では、私(教父バシリデス)によって、死者たちの信じている神の上位にアプラクサスと言う神が、彼らの神と悪魔の上位にあると説かれて、死者たちがパニックに陥った直後から始まった。
更に第Ⅲ章では、至高の神・アプラクサスについて説明がされた。
第Ⅳ章では、神と悪魔の説明がされた。
第Ⅴ章では、教会と共同体について説明がされた。
ここで登場する死者とは、ユング自伝2付録Ⅴ、第I章で登場したエルサレムへ行ったが、探し求めていたものが見つからず私(教父バシリデス)の家に訪れて教えを請うてきた者たちである。各章はこちらになる。
続けて、第Ⅵ章は、こんなふうに始まる。
前回も触れたが、デーモンが出てくるが、これは悪魔のことではないようであるが、詳しく説明がない。この章で語られていることから推しはかるこしかないが、結果的にはわからなかった。
のっけから、わからない。
精神性(第Ⅵ章では”白い鳥”→男性的)と性(第Ⅵ章では”舵”→女性的)にたとえられ、第Ⅴ章での精神性に女性的なもの、性に男性的なものという比喩をしていたのが真逆になっている。
また、天と地という比喩を与えていた。それは「ありのままの存在」(プレロマ)としてのデーモンから区別された「考える実在」(クレアツール)ということで別なイメージなのであろうか。
悪魔とは違うもののようであるが、私にはイメージできていない。
性・舵・女性的の組み合わせが第Ⅴ章の対応と違ってきている。どういう意図かわからず、要は混沌とした「ありのままの存在」(プレロマ)ということか。
女性、男性の比喩がやはり当てはまっていないのではないのか?生意気にそう感じる
要するに神々もデーモンも説明がつかない、混沌としたわからないものだと、今更諭されても仕方がないということだろうか?
ここで第六章は終わる。
◎ユング自伝付録Ⅴ、第Ⅶ章について
続けて、第Ⅶ章に移る。
死者たちの魂は、肉体の束縛から解かれて、果てしない(無限?)の空間にいると言う。魂の存在を認める立場とわかる。
プラトン的に肉体は魂の牢獄といった解釈だろうか?
最後の部分は翻訳機にかけても解読できず。
どんな情景、心象風景を詠んでいるのかわからない。
多分こんなでは、と勝手な想像をした。
「ありのままの存在」(プレロマ)として無であり充満であるものに、煙のように立ち昇って変化し、138億年前に開闢したと言われる宇宙を始めた何か神秘的なものと溶け合った、のでは?
以上が、第Ⅶ章の感想。
そして、『死者への7つの語らい(1916)』を読んだ全体の感想としては。
「ありのままの存在」(プレロマ)と「考える実存」(クレアツール)のイメージが出来たこと。
要は、人智を超えたカオス、混沌としたものを、カント的に直観(直感ではない)で受け取ることが必要なんだね?
カントの『純粋理性批判』とニーチェの『ツァラトゥストラ』は、最新の自然科学の情報をもとに書き換えたら十分通用しそう。
ユングの「考える実存」(クレアツール)に戻ると、一方的な価値感はなくて、それは区別したり分析したり考える意志を持った実存がイメージするだけであって対極になる価値観も磁石のN S極のようイメージされること。
そんなふうに受け取った。
第Ⅴ章から第Ⅶ章に書かれた、“教会と共同体”、“デーモン”、“人間”についてはほとんどわからなかった。
わかったつもりのこともわからなかったことも、ユングの他の著作や解説書を読めば氷解してくることを期待して、今回で、『死者への7つの語らい』の感想文は終わり。
次からは、ユング自伝本編の感想にもどる予定。
ここまで、駄文にお付き合いいただきありがとうございました。
<<<<投稿済の内容>>>>
++++++++++++++++++++++++++++++++++
こころざし創研 代表
ティール・コーチ 小河節生
E-mail: info@teal-coach.com
URL: https://teal-coach.com/
++++++++++++++++++++++++++++++++++