C.G.ユングを詠む(004)-人格No1と人格No2
こんにちは、10回に亘ってゲーテの「ファウスト」の概要とその感想を間に入れました。「ユング自伝」にユング自身の「ファウスト」の感想が載っているので次回に紹介して、感想への感想を書きたい。
ゲーテがユングに与えた影響は、こんなものだった。
悪魔とはいえ、それは排除できるものではなくて、まさに必要悪。善だけでは表しかないコインのような、あり得ない、むしろ表しかなくって影を引いていない方が、お化けみたいなものだ。
天外伺朗さんの「運命のシナリオ」の口絵「無意識層に巣食うモンスターたち」からモンスターから意識層に着目して書き換えた図を、「意識と無意識の階層構造」として描いたものをアクセントとして載せておく。
ファウストを読んだ後では、モンスターたちもいないと階層構造が崩れ落ちてしまうような認識が強くなってきた。
それでは、河合隼雄先生の「ユングの生涯」の続きに移る。
11.人格No1が主であり人格No2はNo1の影
大学で医学を専攻すると決めた頃の夢から、人格No1こそカンテラの灯をもつ主で、人格No2はその影であると認識する。人格No2は「内なる光の国」と言えるような魅力ある世界である一方、人間の意識の中では巨大な影となるものである。
人格No2のみに見せられると不幸に陥ると認識していた。
ユングの弟子の一人、フォン・フランツがこう述べているそうだ。外的世界の探究としての自然科学の発展に懐疑的となった当時の若者達は、急激に目を内界へと向け、ドラッグの力の助けを借りて「内なる光の国」に親しむことになる。
人格No1を軽視して、破滅にと向かうことになる例が多発してしまった。これは米国では今も同じようだ。日本にもそんな波が押し寄せつつある感があるのは困った事態だ。
人格No2を無視することは、安全かもしれないが、人生の半分を捨てたことになるし、人生のNo2の強さによっては、No2を無視したことで怒りを受ける心配も指摘している。両者のバランスは微妙で、人それぞれっぽい。
ニーチェのツアラツゥストラについての記述があるので、紹介する。
優越感に浸った文章でいやらしくもあるが、ニーチェでもこんな自己認識なんだと知らなかった。
12.父親の死
1896年、父親が他界する。父との確執は解消されたが、、。
一家の生計は苦しくなり、親類に援助を求めたり、大学で助手をしたり、骨董品の販売をしたりと苦労している。
メンドルフ村の医師ハインリヒ・ペスタロッチ博士の代診をしたりもした。スイスのお百姓さんと仲良くなり迷信や呪いをよく教えてもらった。
医学部では内科を取る予定だったが、クラフトーエビングの精神医学の教科書を読んで気が変わる。
とユングは書いている。肉体と精神を分けて考えるのは上手くいかないなとは今では確信するが、私の若い頃は精神科医になる人は、先生自身もおかしくなるなんて聞いたものだ。酷い偏見である。
1900年に、チューリッヒ大学のブルグヘルツリ精神病院で、オイゲン・ブロイラー教授の下で助手になる。この教授は「精神分裂病(今は統合失調症という)」という病名を初めて使った人。ユングは自慢の弟子だったそうだ。
当時のユングの精神医学への不満は、診断して病名を付けることに専念していて、患者の心を理解するには程遠いものだったことと言う。
13. ブルグヘルツリで出会った患者
ブルグヘルツリでは9年間過ごす。
◎症例1
憂うつの酷い女性。無意識の中に潜む秘密に触れることになる。その秘密とは結婚前に憧れていたが男性がいたが、諦めて今の夫を選んだ。しかし、その憧れていた人が自分との結婚を望んでいると知った。これが抑うつの起点だった。
そして、彼女は自分の二人の子供を意図的に感染症に罹らせ一人は死に至った。ユングの見立ては無意識に行われた殺人とその罪責感による抑鬱状態で統合失調症ではないと見ていた。
ユングは、彼女にユングが真実と思うことを告げる。彼女にとっては受け入れ難い苦痛だったが、ユングのサポートで最終的には受け入れることができた。彼女は退院して再び入院することはなかった。
ユングは「自伝」の中でこう記しているとある。
私自身も医者に行くと、症状を聞いただけでろくに検査も問診もしないで薬だけ出す体験を未だする。そんなに深いところに原因がある病ではないが。それで、全人格的な対応など医局制度を無くしてしまった今の日本の医療体制にできるのだろうか?
◎症例2
1905年にチューリッヒ大学精神科の講師をしていた時の58歳の左足麻痺の女性。
催眠を治療に使って、左足麻痺が完治して歩けるようになった。理解できないことであった。しかし、彼女は麻痺が再発して再来院してくる。
調べてみると、彼女がユングとほぼ同年代の知恵遅れの息子を持っていた。彼女は息子に期待して果たせなかった夢をユングに投影し、息子に見立てたユングの名医ぶりを示すために奇跡的な回復を無意識のうちに演じていたことがわかってくる。
ユングはこう述べている。
◎ユングの弟子であるフォン・フランツ女史の話。
ユングはフランツ女史に「月に行ってきた」と言う統合失調症の患者のことを話してくれた。患者の話を真に受けているユングに一瞬反感を持ったが、「その人は本当に月に行ってきたんだよ」と返された。
フランツ女史は、「内的現実」が存在すると言うことが、心におさまるようにわかったそうだ。患者の言うことは常に「本当」として受けとめて上げることのようだ。受けとめてくれなければ射殺してやろうと患者は考えていたらしい。
これは、私も何回か読み返してみてやっとわかったところだ。それにしても怖い商売である。
14.結婚
1903年にエンマ・ラウシェンバッハと27歳で結婚する。エンマは20歳だった。
1909年にチューリッヒ郊外に家を建てた。結構なお屋敷だったらしい。
一男四女が生まれ生涯添い遂げる。やがて分析家としても活動しユングの仕事を助けていた。
ユングには結婚後、トニーという愛人ができるが、妻エンマは承知していたらしい。トニーはさして美貌の持ち主ではなかったらしいが、元型animaを見ていたのではないかと言われる。こちらも生涯関係を保っていた。
この時期を描いた映画「危険なメソッド」というのがあるが、出てくる患者が『ユングの生涯』と一致しないのでもう少し調べたい。『自伝』には映画の事例が載っているのかもしれない。映画にはトニーについて言及されるが登場はしない。
<<<<投稿済の内容>>>>
今回はここまで。私のバイアスのかかった気づきなので、わかりにくかったり、初歩的すぎるところはご容赦願いたい。ご興味を持たれたら、河合隼雄先生の「ユングの生涯」を手にされたい。
++++++++++++++++++++++++++++++++++
こころざし創研 代表
ティール・コーチ 小河節生
E-mail: info@teal-coach.com
URL: https://teal-coach.com/
++++++++++++++++++++++++++++++++++