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映画『蛇の道』(2024年公開)の感想【真の蛇の道か?】

一見したところ、フランス文学の要素を強く感じさせる作品との印象を持った。冷え切った夫婦関係は、フローベール『ボヴァリー夫人』を想起させ、監禁の場面は、マルキ・ド・サドのサディズムの要素を強く感じさせる。

しかし、悲劇や残虐性な要素な部分の中に、コミカルと思える軽い要素も入れてくる不思議な作品とも感じる。

精神の病の問題もテーマにしているというところで、公開前は、約二十年前のアメリカ映画の『ビューティフル・マインド』を頭に浮かべてしまい、対照的な作品になるだろうかと思ってしまった。
事実、そうだったかもしれない。

『ビューティフル・マインド』は、統合失調症の当事者で、ノーベル経済賞も受賞した数学者ジョン・ナッシュ教授の半生を描いた、夫婦愛の物語ともなっていて、アカデミー賞も幾つも受賞し、とても注目度高く、感動させられた物語であった。

ただ、そのような、夢や希望を与え続ける物語は、妄想をかきたて、現実では、悲劇を起こしかねないとという矛盾があるのではないかとも、歳を重ねるごとに感じるようになった。
そのため、物語においては、悲劇が数多く生み出される必要があるのではないか、とも感じる。

数百年前のシェイクスピアの悲劇作品群や模倣作品が、幾度も上演されたり、映像化されたりするのは、頷けるというものである。

しかしながら、シェイクスピア作品は、悲劇に酔うというか、滅びの美学を感じさせるところもあり、そこから、かえって悲劇を望む妄想を広げてしまう恐れもあることを忘れてはならないとも考えてしまう。

比べて、カフカ『変身』、魯迅『阿Q正伝』は、フローベールの作品同様、かなり強烈な、思い出すのもおぞましいと感じる作品は、悲劇というより、『反面教師的』と言える作品で、必要性を感じる。

反面教師的な点なら、約二十年前の日本映画の『バトル・ロワイアル』が持っている要素と通じるところである。

一方、この『蛇の道』は、残虐性を描きながら、フランス映画だからか、フランスらしさと言えばよいのか、重さの中にある軽さというのか、遊びを感じさせる要素があると感じてしまう。

かと思えば、支配しようとしてきた側が支配され、お仕置きされるという、日本の時代劇の『必殺仕置人』のような要素も感じさせる。

『ビューティフルマインド』のように、精神の病を持った主人公が、母のような存在の献身によって強く生きていける希望が、この作品にはないような気がする。

病者の中に潜む、悪の部分をさらけ出され、しっぺ返しを食らう展開になっているようだ。

見た後は、「メデューサ」と目と合って石と化してしまったような気分になるかもしれない。

また、作中の後半では、「対峙して話していると、嘘と真実が入り乱れ、何が真実か分からなくさせられる」存在として、悪?の組織の黒幕の名前が挙げられる。

その存在が最後にどうなるかは、見て確認してほしいとしか言えないが、物語が結末を迎える頃には、その存在が、主人公の小夜子と大いに重なっていくように見えてしまったのは確かだ。

真実か嘘か
支配と支配される
加害か被害か
善か悪か
など

それらは紙一重で、すぐに変わってくるもので、日本の近松門左衛門の、『虚実皮膜(肉)論』を思い起こさせる。

勧善懲悪の要素を否定した作品ともとれる。

日本的とフランス的な文学作品の持つ、性質も合わせ持った作品で、『真・蛇の道』と言えばよいだろうか。




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