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どこだれ㉝ 文化を残す意味ってなんですか?


「文化って、どうして残すんだと思いますか」

以前、滞在先でそう聞かれたことがある。正直に言うと、私はこの手の質問が苦手だ。それは、自分のやっていること(例えば作品をつくること)とこの問いに近いものがあり、否定すると自分の存在意義が危うくなる、と薄々感づいているからだ。しかし、本当は心のどこかで思っている。文化を残す意味なんて、本当はないんじゃないだろうか。

これまで、様々な「文化を残そうと尽力している人」に会った。
お世話になっている王滝村ではどんぐりを使った「ひだみ料理」を発信しているし、金沢市の金石では漁師町の家々で食べられていたレシピを聞き取り「かないわレシピ」として公開している。岩手県の北上山地民俗資料館では、信じられないほど大量の山仕事の道具を収集・展示している。展示されている斧だけでもざっと10数種類ある。すべて同じように見えても、作者や使っていた人の身体や癖に合わせてそれぞれ微妙に違う。「家を壊す時にみんな『もったいないから』ってうちに持ってくるんです。だから収蔵庫はすごい量になっているんですけど…」と館長が笑いながら話してくれた。ずらっと並べると同じ道具でもその違いがよくわかる。管理だけでも大変だろうに、きちんと受け入れ展示までしているなんて。資料館の執念だと思った。

しかし、収蔵スペースは有限だ。執念だけではどうにもならないこともある。
以前、ニュースで奈良県立民俗博物館の現状が報じられ話題になった。
「奈良に暮らす人々が改良と工夫を重ねながら伝えてきた、大正から昭和初期の生活用具や農具、国重要有形民俗文化財の『吉野林業用具と林産加工用具』などを、わかりやすく展示しています。(HPより)」という博物館は、県民から寄付された道具などが増え、本館以外の旧高校などに仮置きしている状況だという。収蔵品は約4万5千点というのだから、全体を把握するのも一苦労だろう。知事はこうした現状に対して、「価値があるものしか(県民から)引き取るべきでなかった」「文化財に指定されていない資料を保管し続ける意味はどこにあるのか」という言葉で議論を促していて、博物館はなかなか厳しい対応を求められているなあと感じる。もちろんスペースは有限であり、永遠に引き受け続けることなどできないことは重々承知していただろうが、現場にはおそらく何かしら気持ちのやりとりがあったのではないか。「残したいのだけどどうすればいいか」と持ってきた人と、「残さねば」という気持ちで引き取った人が責められるのはつらいものがある。

冒頭の質問をした人は、料理レシピや地域の文化を残そうと動いている人だった。当たり前のことだが、何かを残そうとするのには大変な手間がかかる。レシピを残すのだって、後世にわかりやすい形に落とし込む(取材をして記事や写真として残したり、本にまとめたりする)のには時間も人手もかかる。残してもその価値がすぐに認められない場合だって多い。認められないどころか、「なんの意味があるの?」「なぜそこにお金を使わなきゃいけないの?」と責められることが多いのではないか(だからと言って安易に「地域おこしのためにこのレシピを使いましょう!」と言い切ってしまうことには危うさを感じるのだが)。
こういった活動は、「なくなってしまうのは惜しいから」という理由や、個人の使命感だけではとても続かないだろう。だからこそ「文化って、どうして残すんだと思いますか」という問いを他者に投げかけたくなるのではないか。

そんなことを考えてもやもやしていた時、あるニュースが目に留まった。それは、ある池の植物標本に関する記事だった。その池では数十年前から毎年そこに生息しているすべての植物を標本として保存していた。すると、ある段階から外来種が猛烈に増えてきていることがわかった。一体いつから生息していたのか、標本を調べていくと意外なことが発覚する。「在来種」として以前から保存していた標本が、実はその外来種であり、長い間この池に生息していたというのだ。それが明らかになったことによって、早急な駆除が必要ないことがわかり、池の生態系を考えるうえでも新たな視座が加わったという。

数十年前、標本を残し始めた人はこんなことは予想できただろうか。そもそも在来種としてラベリングしていたくらいだったのだ。自分が保存した標本にこんな展開が待っていたなんて、想像していなかったのではないか。
この事例を知って、私は「何かを残す」ということに関しての考え方が変わった。きっと、文化というものは、残している段階では何の役に立つかなんてわからないのだろう。それでも、後々何か役に立ってほしいと願いながら、後世の選択肢をできるだけ残しておくために、私たちは保存に尽力するのだ。

文化を残す意味は、正直に言うといまだにわからない。それでも、残すという行為は、いま私たちが想像しうる以上の使い方や、思わぬ発見があるはずだと、祈りに近い思いを抱きながら、「未来の人間」を信じて準備することなのではないかと思っている。