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2024年2月に観た映画


いつも通り、内容・展開についての記載があるので注意。


ボーはおそれている

監督:アリ・アスター
2023年
179分

日常のささいなことでも不安になってしまう怖がりの男ボーは、つい先ほどまで電話で会話していた母が突然、怪死したことを知る。母のもとへ駆けつけようとアパートの玄関を出ると、そこはもう“いつもの日常”ではなかった。その後も奇妙で予想外な出来事が次々と起こり、現実なのか妄想なのかも分からないまま、ボーの里帰りはいつしか壮大な旅へと変貌していく。

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アリ・アスターはいつも「すべては最初から運命で決まっていた。仕組まれていた。どう抗ってもあがいても無駄だ」ということを描いてきたが、今作でもそれは同様。
そして、母親からの呪縛という部分はミュンヒハウゼン症候群の短編も思い出したり(最悪なトイ・ストーリー3)。
Jewish motherという言葉があるくらいで、あの母親の過保護・過干渉っぷりはユダヤ人あるある?

ボーが暮らしているのは、まるで世界一治安の悪い街。
部屋の中でも外でも、起きてほしくないことがどんどん起きる。
水のペットボトル一本であそこまでサスペンスになるか。
症状や薬をあまりインターネットで検索してはいけない。
序盤は分かりやすく悲惨で面白いドタバタコメディとなっている。
そこからどんどん悪夢的な迷宮に向かい、ボーも観客も彷徨うことになる。ずっと袋小路だ。
パートごとに舞台が分かれており、だいたいボーが気絶したところでパートが変わる繰り返しも笑えてくる。
ドゥニ・メノーシェが出てるの知らなくて、すごいドゥニ・メノーシェみたいな人がいると思ったら本人だった。

今作が描くのは、ユダヤ人の受難。
どこにいても自分の本当の居場所じゃないような気がする。
「そこはお前の居場所じゃない」と言われているような気がする。
ユダヤ人のそれは、長い長い歴史から現在の様々な問題に続いていることだ。
ちなみにホアキン・フェニックス自身もユダヤ系であるが、彼はガザとイスラエルにおける停戦を呼び掛ける公開書簡に署名し、バイデン大統領に提出している。

途中、印象的に挿入されるアニメーションパート(イメージ的にはアニメと実写を融合させている)を手がけたのは、昨年大きな衝撃を与えたチリのストップモーション映画『オオカミの家』監督のクリストバル・レオンとホアキン・コシーニャ。
人工的な悪夢感が、アリ・アスターの作家性と上手くマッチしている。
結構な尺をとったそのアニメパートで、最後ボーが急に我に返るところも笑える。

長い長い旅の果て。
物語が終わってエンドクレジットが出る瞬間、あの劇場全体に漂う困惑した空気感が忘れがたい。
行き過ぎた恐怖はもはや笑いになる。行き過ぎた笑いはもはや恐怖になる。
どれだけ変なものを見せられても、やはり次を楽しみに待ってしまう監督だ。


夜明けのすべて

監督:三宅唱
2024年
119分

PMS(月経前症候群)のせいで月に1度イライラを抑えられなくなる藤沢さんは、会社の同僚・山添くんのある行動がきっかけで怒りを爆発させてしまう。転職してきたばかりなのにやる気がなさそうに見える山添くんだったが、そんな彼もまた、パニック障害を抱え生きがいも気力も失っていた。職場の人たちの理解に支えられながら過ごす中で、藤沢さんと山添くんの間には、恋人でも友達でもない同志のような特別な感情が芽生えはじめる。やがて2人は、自分の症状は改善されなくても相手を助けることはできるのではないかと考えるようになる。

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「女特有のヒス」で片づけられてきた女性のPMS。
「男なんだから頑張れ」で片づけられてきた男性のメンタルヘルス。
世の中には、自分が想像もつかないようなことで悩んでいる人がいる。
今目の前で笑っている人も、実はとてつもなく大きなものを抱えているかもしれない。

現在と過去を結ぶ「声」。
ほぼ姿が映らないのに、今作における斉藤陽一郎の存在感。
一昨年亡くなった青山真治へのリスペクトも感じてしまう。

栗田科学の良いところは?という質問に「もう少し駅から近ければ…」と答えるおじさんの可笑しさ。
でも、この会社の良いところは言葉にしなくてももう十分観客に伝わっているのだ。
世の中は闇の部分が多いけれど、でも決して完全な闇ではないはず。
栗田科学という会社が完全なファンタジーかというと、きっとそうではない。
良い人しか出てこない、という見方もできるかもしれないが、その「良い人」がそれぞれに抱える、多くは語られない喪失。
彼らが「良い人」になるまで、果たしてどれほどのことがあったのだろうと思わせる。

栗田科学の設計、トンネル、坂道…前作『ケイコ、目を澄ませて』にも通じる、印象に残るロケーションの数々。
フィルム撮影の温かみ。
今作は決して病気がテーマの作品ではなく、ここで描かれるのは人と人との対話。
他者とともに生きるとはどういうことなのかだ。


瞳をとじて

監督:ビクトル・エリセ
2023年
169分

映画『別れのまなざし』の撮影中に主演俳優フリオ・アレナスが失踪した。当時、警察は近くの崖に靴が揃えられていたことから投身自殺だと断定するも、結局遺体は上がってこなかった。それから22年、元映画監督でありフリオの親友でもあったミゲルはかつての人気俳優失踪事件の謎を追うTV番組から証言者として出演依頼を受ける。取材協力するミゲルだったが次第にフリオと過ごした青春時代を、そして自らの半生を追想していく。そして番組終了後、一通の思わぬ情報が寄せられた。
「海辺の施設でフリオによく似た男を知っている」

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世代的にもビクトル・エリセをリアルタイムで追っていたわけではないものの、数十年ぶりの新作ともなれば気になる。
日本にいる以上どうしても「瞳をとじて」と聞くと別の何かが思い浮かぶものの、原題がこれなので仕方ない。

アナ・トレントとの再会は、単なるファンサービスの域を超えて私たちに何か特別な気持ちをもたらす。
きっとそれはエリセとアナ本人にとってもそうだっただろう。
リュミエール兄弟『ラ・シオタ駅への列車の到着』の引用、ドライヤー亡き今…という台詞からも、映画史と映画についての作品にも思える。

この現代において、映画館で映画を観るとはどういうことなのかをエリセは問いかける。
フィルムからデジタル、そして配信サービスへの移行。昔ほど多くの人が映画館に足を運ぶことが少なくなった。
もう映画に奇跡を起こすような力は残っていないのか。
映画で誰かの人生が変わることはあり得るのか。

しかし、この物語のラストで観客は奇跡のような何かを目撃するのだ。
いや、実際は何も起こっていないのかもしれない。
結局、フリオは何も分かっていないのかも。
それでも、きっと観た前と後では世界がどこか変わって見える、それくらいの力がある作品だ。
感想を書きながら、この作品についてもはや言葉は必要なのかとすら思える。

基本的には会話劇なので切り返しが多様されるが、その途中でアナの顔にカメラがぐっと寄ったり、干してあるシーツの向こうでミゲルとフリオがペンキを塗っていたり、ハッとする印象的な場面も多々。

もう戻らない時間。
しかし、映画というものは、時間を光と影とともにフィルムの中に閉じ込める。



梟 -フクロウ-

監督:アン・テジン
2024年
118分

盲目の天才鍼医ギョンスは病の弟を救うため、誰にも言えない秘密を抱えながら宮廷で働いている。ある夜、ギョンスは王の子の死を“目撃”してしまったことで、おぞましい真実に直面する事態に。追われる身となった彼は、謎を暴くため闇を駆けるが……。

映画.com

ポスターだけは見ていて、スリラー系かなと思いあまり調べずに観たので歴史ものだということに驚き。
長らく清で人質とされており、ようやく戻った世継ぎが強烈な形での不審死を遂げたという、実際の「仁祖実録」という記録から着想を得て作られた物語で、史実?から万人が楽しめるエンターテインメントに仕上げるのは相変わらず韓国映画の十八番で、今作ももれなく面白い。
「盲目の人がとある事件現場に遭遇する」という点では、近年日本でも『見えない目撃者』という傑作リメイク映画がある。

序盤から、説明になりすぎずギョンスという人間の凄さをコミカルにテンポよく説明していく。
位が高い人の診察は、直接お身体に触れることができないので糸を使っていたとか、実際にこういう形をとっていたのかはさておき面白い。
ハンデを抱えていることでなめられていた主人公が周りをぎゃふんと言わせる王道展開や、「Respect!」おじさんことパク・ミョンフンが良き協力者として脇を固める。
そして、ついに主人公がとある悪行を"目撃"する時、観客も一緒に衝撃を受ける。

見えないこと。
見えるけれど見えないふりをしていたこと。
巨悪に対してひとりの市民ができることは何だろうか。
主人公ギョンスが抱えるある秘密というのがこの物語におけるひとつのギミックになっているが、実際こういう性質をもった人はいるようで、その人たちも日常生活の中であらぬ誤解をされ、理不尽な思いをすることがあるという。

ポスターになっているシーンはどんな場面なんだろうと思ったけど、思わずこっちも仰け反りそうに。
とはいえこういった感じの怖い場面が連発するホラー、スリラー映画ではないので、万人に勧めることができる作品だ。韓国で大ヒットしたというのも納得。
いつもは庶民派で気のいいおっちゃん、というイメージが強いユ・ヘジンの新たな役柄を見ることができる作品でもある。



カラオケ行こ!

監督:山下敦弘
2024年
107分

合唱部部長の岡聡実(おかさとみ)はヤクザの成田狂児(なりたきょうじ)に突然カラオケに誘われ、歌のレッスンを頼まれる。組のカラオケ大会で最下位になった者に待ち受ける“恐怖”を回避するため、何が何でも上達しなければならないというのだ。狂児の勝負曲はX JAPANの「紅」。聡実は、狂児に嫌々ながらも歌唱指導を行うのだが、いつしかふたりの関係には変化が・・・。聡実の運命や如何に?そして狂児は最下位を免れることができるのか?

公式HP

和山やま先生の漫画で最初に読んだのが原作『カラオケ行こ!』だった気がする。
先生の作品はどれも真顔シュールギャグというか、絵柄も相まってその独特な登場人物たちの空気感がいつも癖になる。

ヤクザと中学生の交流、という二次元の漫画だから許容できていた超フィクションの物語が実写になるとどうなるんだろうかと観る前はいろいろ考えたものの、監督・山下敦弘、脚本・野木亜紀子含め作り手がみなそこは原作をさりげなくアレンジしながらもいろいろ工夫されていたように感じた。

情報解禁時は、綾野剛が狂児か~と思ったものの、映画を観ているとだんだん狂児に見えてくる不思議。やっぱり役者って凄い。
(自分はあらゆる漫画実写化の男性主人公を○歳の時の長瀬智也もしくは○歳の時の岡田准一で勝手に想像する癖があるので、誰がキャスティングされても最初は勝手に残念がる。狂児も実写ゴールデンカムイの杉元も、自分の脳内では長瀬智也だった)
憎めなさ、適当さ、儚さ、こいつに捕まったら良くも悪くも逃げられないなという魅力を綾野剛が最高に体現していたと思う。

聡実役の齋藤潤にとっては、彼自身が大人になっていく過程の一瞬を切り取った特別感のある作品に。
満を持して『紅』を歌うシーンは、漫画のコマでは表現できない、実写だからこそのパワーと説得力があった。(一瞬映る、組長が目頭おさえてガチ感動泣きしてる感じも好き。)
カラオケで前奏や間奏が長い時の微妙な空気感とか、歌ってる間に炒飯を注文して食べてる時間の経過感とか細かい良い部分がたくさんあるし、何より原作からの掘り下げという点では今作のMVPとも言える和田君、そして映画を観る部の存在。
決して単純な(適当な)実写化にはなっておらず、原作と共に長く愛されるものになったと思う。

これ、本当に齋藤君が成長したときに同じ座組で『ファミレス行こ。』実写も実現したら凄いことになりそう!



プー あくまのくまさん

監督: リース・フレイク=ウォーターフィールド
2023年
84分

楽しい冒険に満ち溢れていた日々は終わりを迎え、青年になったクリストファー・ロビンは、大学進学のためプーとピグレットを森に残して旅立っていった。時が経ち、婚約者のメアリーとともに100エーカーの森に戻ってきたロビンは、そこで血に飢え野生化してしまったプーとピグレットの異様な姿を目の当たりにする。

映画.com

A・A・ミルンの児童小説『くまのプーさん』の著作権が2022年1月をもって消滅、晴れてパブリックドメインになったということで作られた映画。
公開時はPG12だったそうだが、かなり凄惨なシーンも多い。
トイ・ストーリー3のアンディ同様、大学進学のため実家を離れるということで、クリストファー・ロビンは100エーカーの森とお別れすることに。彼が自分たちを置いていったことにプーは憎しみを募らせていた(その際、いろいろあって仲間であったはずのロバのイーヨーを殺害)。

アニメ版の名言「プー、君だけは"何もしない"をしていてね」というクリストファー・ロビンの思いもむなしく、悪行三昧のプーとピグレット。
大前提として、『くまのプーさん』は、多分、おそらく、クリストファー・ロビンという少年がぬいぐるみでひとり遊びをしている時の、脳内物語なのだというものがある(実際、アニメ版の最初と最後は実写の子供部屋とそこに置かれているプーのぬいぐるみが映る)。アニメ版にはクリストファー・ロビン以外の人間が出てこないように、100エーカーの森の仲間たちが動いて喋っているのを見るのはクリストファー・ロビンだけなのだ。

しかし、今作では普通にプーやピグレットが動いているところをいろいろな人が目撃し、彼らに殺害されてしまうので、そういう設定は活かされていないようだ(婚約者のメアリーが「イマジナリーフレンド」という言葉を出すことも事態を余計にややこしくしている)。

ここからはただの妄想だが、もし自分が『くまのプーさん』でホラー映画を作ってください、と言われたら、プーが童心や幼年期の象徴であることを活かしたパラノイア、ニューロティック系のホラーにしたいと思う。
大人になり、結婚を決めた自分になぜまだプーが動いて見えるのか、それは結婚恐怖、子供だった自分が父親になる恐怖、それを忘れさせてくれる永遠の幼年期への誘いでありクリストファー・ロビンはそれに心揺らぎながらも、最後は大人になることを決意し自らの手で涙ながらにプーを倒すという泣けるホラーに…って完全に楳図かずおの『ねがい』になっているような気がする。
とにかく、『くまのプーさん』をテーマにしたホラーってもっと作り様があった気がするけれど、単純なスプラッターホラーになっていたのは少し残念。

…と思いきやすでに続編が決まっているらしく、脚本を手掛けるのがあの傑作ジュブナイルホラー『サマー・オブ・84』のマット・レスリーらしく、まさかの続編は傑作になる可能性が…?



落下の解剖学

監督:ジュスティーヌ・トリエ
2023年
152分

人里離れた雪山の山荘で、男が転落死した。はじめは事故と思われたが、次第にベストセラー作家である妻サンドラに殺人容疑が向けられる。現場に居合わせたのは、視覚障がいのある11歳の息子だけ。
証人や検事により、夫婦の秘密や嘘が暴露され、登場人物の数だけ<真実>が現れるが──。

公式HP

夫が事件または事故死、そして刑事や世間は妻が犯人ではないかと疑う、という映画は一定数存在する。少し例を挙げるだけでも『氷の微笑』『妻は告白する』『別れる決心』など名作揃いだが、妻が多言語を使い分けるという点などで特に『別れる決心』とは共通点が多い。
自分の第一言語でない場所で裁判沙汰になる際、言葉が不自由というだけで不利な状況になり得る、ということも改めて気付かされた。

一軒の家の中で起きたとある家族の事件とか、割と自分が一番好きなタイプの映画で、原作・松本清張、脚本・橋本忍、監督・野村芳太郎的な、60〜70年代くらいに作られた凄く面白い日本のサスペンス映画みたいな香りもする。

主演のザンドラ・ヒュラーの演技は素晴らしく、英語・フランス語・ドイツ語を使い分けながら「疑惑の妻」を、可哀想な人にもいわゆる悪女にもなりきらない絶妙なバランスで演じきっている。
hot lawyerとして話題のスワン・アルローは今作がきっかけで出演作が増えそう。
そして印象に残るのは、カンヌ国際映画祭でその年のパルム・ドッグ賞を受賞したのも納得な犬の名演。今どき動物に無理やり何かさせて演技を引き出すということはまずあり得ないので、あれは全て演技ということ。一体どうやって撮ったのか想像もつかないようなシーンもあり、観た者全てが驚かずにはいられないだろう。
時折ドキュメンタリーのようになるカメラワークも面白い。

ひとつずつ、捜査とそこからの裁判を通して事件が解剖されていく。
今作の巧妙な部分は、回想シーンの使い方にある。この映画の白眉とも言える夫婦喧嘩のシーンは、途中まで夫婦が言い合う映像が実際に流れるが、それがエスカレートし暴力的な音がし始めたところで映像が法廷の、現在のものに戻る。つまり、決定的なところは音だけは聞こえるが何がどうなっているのかは観客の想像に委ねられる。
そして、終盤に息子が再び法廷で証言をするシーンも、父親が何か口を動かして彼に語りかけている映像が回想されるが、そこは音声がないため本当に息子の証言内容を話していたのかは分からない(個人的には、息子の最後の証言はかなり怪しいと思う)。

映画を最後まで観た後に強く思ったことは、裁判というのは事件の決着をつけるために行われるものであるが、決して事件の真相が判明する場ではないということ。被害者が亡くなっている場合、もうその人の声を直接聞くことはできないので当たり前のことだ(黒澤明の『羅生門』みたいな反則的に死者の声を聞く方法もあるが)。
今作は、多くの観客が気付いていない真相はこれだ!みたいな、いわゆる「考察映画」的なものではなく、どこまで考えても藪の中な人間というものの複雑さ、分からなさを描いた作品なのだろう。もちろん、そこには勝手に人をイメージで決めつけてジャッジすることの危険性も含んでいる。
あなたはどう思う?と、観た人同士で思わず語り合いたくなるような、今年最重要作の一本だろう。

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