Kae Tempestの詩とスポークンワードの今日性
「Kae Tempestは16歳で活動を開始し、夜間バスで見知らぬ乗客達に向かいラップをしたり、レイヴのMCにマイクを貸してくれとせがんでは苛立たせていた。10年の時を経て、Tempestは脚本家、小説家、詩人として作品を出版・発表。レコーディング・アーティストとしても評価されるようになった。」
以上はKae Tempestの公式Bandcampページの紹介文である。Tempestは2022年、性自認が男女または他のいずれにも当てはまらない「ノンバイナリー」であることを公言し以後代名詞は "she/her" ではなく "they/them" と表記するようになった(注1)。Kaeというファーストネームも以前はKate(ケイト)という女性名だったが、性を固定しないKae(ケイ)に変更し、長い髪もばっさり切った。
代名詞についてはどう日本語に反映するべきか、すでに決まった表記があるのかなど、私はまだ不勉強で適当な資料を見つけられていないのだが、本ページにおけるTempestの代名詞は「彼/女」と表記させていただく。
Kae Tempestの来歴
1985年ロンドン南西部生まれの彼/女は自身の出身地を次のように語る。
「地元には愛着があります。多くの人にとってキツい地域だけど、私はとても良い、温かい家庭で育ちました。でも近しい友人達はかなり大変な目に遭ってきた。私の出身地ルイシャムは10代の妊娠率と10代の殺人事件数がイギリスで最も高い地域で、ヨーロッパ最大の警察署もあります。〔…〕多様な民族が混在しているのはこの地域の大好きなところ。たくさんの異なる言語に触れながらストリートで育った私は、とても恵まれていると思います。」(2013年5月24日更新)
治安の悪さに言及しつつ、近親者に恵まれてきたことはこのインタビュー以外でも方々で語っている。家庭環境としては教師の母と、土建労働者から法律家に転身した異色のキャリアを持つ父のもと、5人兄弟の1人として生まれた。父は詩や戯曲、絵画など様々な創作を日常的に実践する人でもあったという(注2ほか)。
Tempestは中等教育中の13歳か14歳ごろからほぼ不登校になったが、16歳のときThe BRIT School of Performing Arts and Technology(ロンドン南部クロイドンにある学校。ちなみにこの地域も治安は悪い)の難関なオーディションにギター実演で合格し、入学した。その名のとおりパフォーミングアーツに特化した専門学校で、そのような教育環境に身を置くのが初めてだったTempestはカルチャーショックを受けたという(注2)。卒業後はロンドン大学のGoldsmiths校で英文学を学んだ。彼/女のステージネームのTempestは「嵐」に情熱を感じるからという理由で作品は未読のままシェイクスピアの同名戯曲から流用したそうだ。上記インタビューによると彼/女は古典作品も特別視せず、ただ気になるものを齧っていく中にシェイクスピアやウィリアム・ブレイクなどの作品もあったらしい。ロイヤル・シェイクスピア・カンパニーから作品制作を依頼されたこともあり、上記ビデオでは成果物の詩を披露している。そこにはKae Tempestによる柔軟なシェイクスピアの解釈が瑞々しい感性で反映されているようだ。
このように学歴や経歴を並べると華々しいが、インタビューを受ける彼/女の様子は実直で奢りがない。対談相手が記者やメディア司会者のときはやや慎重な姿勢を見せることもあるが、ミュージシャンや作家の場合はむしろ情熱的に語りかけている。さらに特筆すべき点は、パフォーマンス中でも普段の対話でも彼/女の英語の発音はロンドンの下町訛りでカジュアルに聞こえるが、作品の語り口や語彙は往々にインテリ感を帯びる。その音感は親しみやすさと若干の取っ付きにくさが共存する独特の印象を孕むが、それはTempestの出自と受けてきた教育に由来するのだろう。階級文化が色濃く表れるのがイギリス音楽の特徴のひとつだが、おそらく労働者階級の視点も中産階級の視点も両方持ち合わせていることがKae Tempestの表現者としての個性を際立たせているのかもしれない。これらを踏まえ彼/女の作品を追いたい。
UK音楽界におけるKae Tempest
複数の領域を横断して活動するKae Tempestだがレコーディング・アーティストとしての彼/女は、後述する作品を含めすでに2枚のアルバムがMercury PrizeにノミネートされBrit Awardも個人でノミネートされるなど高い評価を得ている(これらは英二大音楽賞に相当)。昨年はBBCで『Kae Tempestであること』というドキュメンタリー番組も放送された。
Tempestの作品はイギリス国内外の社会・政治情勢を批判するものが多々ある。イギリスでここ数年そういった作風のスポークンワード・アーティストやバンドが注目を得るようになったのは、EU離脱(以下ブレグジット)やコロナ禍の過酷なロックダウン、それに伴う政治スキャンダル、経済破綻など、実際にイギリスが国家的危機を経験したことが背景にあるのだと思う。
特にブレグジットを象徴するような作品が散見されるが(注3)、中でも2015年にリリースされたKae Tempestのシングル《Europe Is Lost》はタイトルこそ「ヨーロッパ」に言及しているものの、イギリス、ヨーロッパ(そしてアメリカ)に留まらずその影響を受ける世界の様相を嘆き、スケール感では他のアーティストの作品と比べて抜きん出ている。
『Let Them Eat Chaos』
《Europe Is Lost》は2016年のアルバム『Let Them Eat Chaos』(奴らにカオスを喰わせろ/同名の詩集も出版)に収録されている。アルバムの物語の舞台はロンドン、7人の人物が登場する。ドラッグ漬けで荒んだ生活を送ってきたGemma (she/her)、過去の悪夢から目覚めなんとか今を生きようとするAlisha (she/her)、金欠過ぎて実家に戻ってきたものの生活は変わらないPete (he/him)、それなりに良い仕事に就き満たされた暮らしをしているのになぜか現実感のないBradley (he/him)、引っ越し準備中思い出の品に気を取られなかなか荷造りが進まないZoe (she/her)、特異な傷心が尾を引き女の子と上手く恋愛が出来ずに苦しむPious (she/her)。彼らは皆、赤の他人同士だが同じ通りに住んでおり、午前4時18分に眠れずにいる。それは何かが起こり彼らを引き合わせる時刻だった。
当作品はシングル曲以外は無料配信されていないが一部こちらで試聴できる。シングルやプレビューを聞くだけでもライヴ演奏とのアレンジの違いが分かるが、個人的には2017年ドイツのフェスティバルでアルバムを曲順通り全て演奏した際の映像に圧倒された。同年グラストンベリーではオーディエンスが涙する様子も報じられた(注4)。平均的イギリス国民にとってお隣さんになり得るような登場人物の葛藤を語るTempestの姿は、特に国内の観客の共感を誘うだろう。一方でアルバム1曲目、物語の序章となる《Picture a Vacuum》は地上を俯瞰する神のような存在の視点で語られる。
その後も同様の形而上学的な表現がアルバムの転機となる楽曲に挿入されている。当作品にはSF映画のような壮大な世界観があり、Kae Tempestの脚本家、小説家としての側面も垣間見られる。
もちろんTempestの詩・物語の世界はその音楽にも支えられている(注5)。アルバム全体を通して不穏な雰囲気を醸し出す音作りが為されているが、その間に詩の内容とは相反するような《Ketamine for Breakfast》や《Whoops》といった比較的軽快な楽曲も含まれていて緊張と緩和を味わえる。いずれも踊りたくなるようなキャッチーな曲調だが後者に至っては各地ライヴの最中でTempest自身が楽しげに笑っている。以下その様子が窺える箇所を一部挙げたい。
Tempestの笑みが自然に漏れるものなのか、はたまた内容に添い、残念な夜遊びを繰り返す登場人物Peteに扮した演技なのかは読み取れず、彼/女のミステリアスさに惑わされる。
さて、ここで先述した《Europe Is Lost》を紹介したい。アルバム4曲目に当たるこの楽曲はEstherの物語だ。Estherという名はKae Tempestの本名のミドルネームでもあるので当アルバムで最も彼/女自身に近い存在なのかもしれない。MVやデジタルシングルにはなぜか冒頭のEstherの人物紹介が含まれていないが、それを含む以下のライヴ映像ではアメリカのオーディエンスも彼女の「声」に共鳴している様子が窺える。
(*いずれもラジオ収録のため詩の中の放送禁止用語はオリジナルとは別の形で表現されていますが、それでも露骨な表現を含みます。)
(2016年12月31日更新)
(2017年04月24日更新)
《Europe Is Lost》
歌詞/詩 注
*1:「ガラスの天井」とは、女性が社会的マイノリティーである環境で昇進や昇給を不当に阻まれる状態を指す。目に見えない「ガラス」の「天井」があるせいで上に昇ることが出来ないというイメージから使われるようになった。
*2: 移民への嫌悪を露わにした人物が登場するが、Kae Tempestはライヴの際に中年男性っぽい仕草でこの部分を演じている。その様子を日本語に反映した。当時実際にこのような文言が一部国民の間で横行したらしい。ブレグジット国民投票前、EU離脱派の右派政党は「移民」についてネガティヴな印象を国民に与えるキャンペーンを行なった。残留派はそれがイギリス社会に与える影響を指摘し、主流メディアも当該問題を扱った。
*3: この節はそれぞれイギリスで実際にあった政治家のスキャンダルを風刺しているようだ。2017年のグラストンベリーでもこの部分で特にオーディエンスが湧いていた。イギリス国会の上院に当たる貴族院(その名のとおり貴族によって構成されている)では2015年までに以下の問題などが浮上している。""引用は原語歌詞の該当箇所。
・"Politico cash in an envelope":複数の貴族院議員の裏金問題
・"Caught sniffing lines off a prostitutes prosthetic tits":ある貴族院議員が売春婦と「粉」を吸っている動画が流出した件
・"They abduct kids":複数の貴族院議員の未成年児への性加害問題
(The Australian Sunday Morning Herald紙、2015年7月29日更新)
"They […] fuck the heads of dead pigs":2015年当時の首相David Cameronがオックスフォード大学在籍中に所属していたエリートサークルで、自身の「『身体の私的な部位』を豚の死骸の口の中に挿入するという奇妙な儀式的洗礼を受けた」というスキャンダル(?)が取り上げられた。これはある元貴族院議員と記者によって書かれたCameronの伝記本に記されたものだったが、2019年にCameronはこの内容を「爆笑もの」だと否定している。
(Daily Mail紙、2019年9月19日更新)
*4: 2011年ロンドン始めイングランド各地で起きた暴動では約2千人が逮捕され、うち多くが厳罰な刑を受けた。しかしその内実はかなり不相応なもので、例として「£3.50の水のボトルを盗んで6ヶ月の刑期を受けた学生」や「暴動が起きている場所をフェイスブックで示した2名の男性は、それが事態に及ぼした影響は皆無だったにも拘らず4年の刑期を受けた」ことなどが報じられている。
"But him in a hoodie with a couple of spliffs"
という描写は軽犯罪を犯す若者の典型を表している。当時のニュース映像においても大きめのパーカーやスウェットのフードを覆い顔を隠す若者が散見された。ただしこのようなイメージは偏見も孕む。実際の「逮捕者のうち5分の1は前科が無かった」 とのこと。
"Jail him, he’s the criminal"
というフレーズは、取るに足らない軽犯罪を犯しただけで厳罰を課される民衆と、重犯罪を犯しても上流階級の身分は変わらない貴族院議員を対比かつ風刺している。
「法廷は2011年イングランドの暴動に『巻き込まれた』人々の扱いを誤ったと、元主任検事は語る」(The Guardian紙、2021年4月1日更新)
個人的読解
《Europe Is Lost》には、植民地主義と戦争、資本主義、その歪みとも言える国民の過重労働や逃避主義、政治と密接に結びついた階級社会、貧困、都市開発、環境問題などなど……、ロンドンの労働者エスターの生活を起点に、今日のイギリスや世界にはびこる病がこれでもかというほどに詰め込まれている。殊に戦争について触れる箇所はどれも悲痛だ。
そこで当楽曲の初出が2015年だったことから当時マスメディアが報じていた戦争を振り返ると、シリア内戦など中東情勢が主だった印象がある。詩の中の "And you wonder why kids want to die for religion" というくだりも、過激派組織イスラム国が自爆テロに子どもの兵士を駆り出していたことを隠喩しているという説もある。さらにその後の戦争としては、2014年ごろからの騒乱に端を発し2022年に本格化したロシアによるウクライナ侵攻、また、2021年ミャンマーのクーデター、そして昨年10月からのハマスとイスラエルの衝突の激化(注6a/「昨年10月のハマスによる越境攻撃をきっかけに激化したイスラエルのパレスチナ侵攻、ジェノサイド」と訂正したい:2024年5月27日追記)などが挙げられる。
もちろんいつの時代も世界中で有事はあるし、報道さえされない地域も多くある。しかしあまりにも日常的に「戦争」が私たちの受け取る映像や音声に飛び込んで来る今《Europe Is Lost》の詩と現状の親和性は非常に高い。公式MVにも戦争関連のアーカイヴ映像が随所に挿入されている。イギリスがこれまで世界各地であらゆる戦争に加担してきたことを踏まえ、Kae Tempestは自己もとい自国批判的に問題を「心配」し、分身と言える「エスター」の声をもって警鐘を鳴らしている。特に序盤にある「意味のない統治」というフレーズやVerse 2の「私達の過去の過ちが再浮上した」という節からの流れは象徴的で、イギリスが当事者でもあるパレスチナ問題も「統治」と「過ち」に含まれているように聞こえる(注6b)。
また、植民地主義と消費主義が表裏一体であることを "Massacres, massacres, massacres, new shoes" という一行で表象する彼/女の姿には生唾を飲む。なんと言うか、Kae Tempestの存在とパフォーマンス全てが皮肉と取れるし、きっとそれは自覚的になされているのだろう。
"… to wake up?" 目覚めについて問う2曲
《Europe Is Lost》において "What am I gonna do to wake up?" という問いは切迫感を帯びるが、このアルバムには他にも同じ台詞を含む楽曲がある。《Pictures on a Screen》では、数ヶ月前にマンチェスターからロンドンに移住した優等生社会人Bradleyがこう嘆く。
そしてアルバム最後の楽曲としてKae Tempest自らが「物語の結末」と位置づける《Tunnel Vision》のサビでは、"What are we gonna do to wake up?" と、目を覚ますべく主語が「私」いち個人ではなく「私達」と複数形になっている。またこの楽曲は《Europe Is Lost》よりさらに具体的に「戦争」に言及し「私達」と戦争の関係を紐解く。
以下の企画では文字通りTunnel(トンネル、地下道)の中でこの1曲を演奏していた。(*露骨な表現を含みます。)
(2017年9月4日更新)
Kae Tempestはアメリカの公開ラジオ収録にて次のように述べている。
「世界が酷い場所だってことが曲作りに上手く作用することなんてあるのかって話になったけど、本当は、全ては愛から生まれたと伝えることが大事だと思ってるんです。私の詩、私達がこうして演奏する音楽、私をインスパイアする全ては愛から生まれたもの。〔…〕孤独や困難についての物語を語ることには大いにポジティヴな要素がある、それは開示することだから。オープンであること。私達は互いにオープンになればなるほど、より多くの愛を受け入れることが出来ると思う。」
Kae Tempestのスポークンワード論
以上のようにTempestの詩を翻訳してみて感じたのは、書き言葉とスポークンワードは根本的に別物だということだ。他のスポークンワード・アーティストやバンドの作品についても同じことが言えるかもしれないが、Kae Tempestの場合特にその傾向が顕著なのである。そもそも翻訳語である上に訳者の至らなさにも要因はあるが、上記の字面はどうも所々説教くさかったり感傷的過ぎる感じが否めない(注7)。パフォーマンスでの彼/女の言葉はとても力強いし韻の踏み方もストイックなのだが翻訳や書き言葉にはそれを反映しづらい。加えて一部独特のユーモアが軽減もしくは消失してしまっている気がする。本来ならそれを際立たせるようなビートと楽曲の疾走感や、ミュージシャンとの間に生まれるエネルギーの循環やうねりも当然ながら文字では伝わってこない。楽曲のアレンジもライヴでは複数のヴァージョンがあるのでバリエーションが楽しめる(注8)。
音楽だけでなくヴォーカルの表現方法も様々だ。Tempestはその時々で詩の文言や繰り返し方を微妙に変えたり、発声の具合も変化させている。それはきっと彼/女が10代からの修練で培ってきた技で、各ステージの環境に合わせて自身の情感を有機的に適応させているように見える。そしてミュージシャン達もその都度、彼/女の呼吸を繊細に読み取りながら演奏している。Kae Tempestの詩はきっとライヴで表現されることで、アルバムや書籍とは全く異なる別個の作品として完成するのだ。
言葉を読み上げることについては以下の対談でTempest自身も熱心に持論を述べている。対談相手はどこの謙虚なおじ様かと思えばレッチリのFleaだった。
(2021年1月11日更新)
「声は反響するものですよね。その反響・共振が音を作り出す。発話者の身体と喉を通して物理的な反響が起こるとき、それはその場の空気と人々の耳にも共振して、もっとアクティヴなものになる。他者の読解を頭の中で書き出すとき(注9)、そこには音声がありません。欠けてしまっている。文字が全て手元にあれば直接的な伝達は可能。でもその人〔作者または読者〕の身体のヴァイブレーションは得られない。
言葉を実際に口にするとき、その言葉をいざ自分の声に乗せて聞くとき、自らその言葉を保証し、明言することになる。それは難しいことです。時々ひとつの行を書き出すことができても、それを声に出して読むことができないときがあります。編集とかをしているとき、私の目は収まりの悪い行を百回と読み飛ばします。ただただ私の声が言ってくれない。自分自身にそれを言わせることが出来ない。ひどい一行だと気づくときはそんな感じ。じゃあ書き直さなきゃ。
でもこれは確かなことなんだけど、テクストを覚える過程では〔…〕(注10)書き出した全ての言葉はそれとして存在するけれど、いざ暗記して口にした瞬間に突然その言葉は全く別の意味を持ち、書き手の役割や存在はなくなってしまう。それは何と言うか、書き手は役割を終えてしまい、演者、読み手、発話者が新たな意味を見出すような……。クレイジーですよね!
こんなことは言わない方がいいんだけどね。だって多くの人の想像の中で天才と崇められる著者から作品の信憑性を奪ってしまうような言い分でもあるから。でも著作の大部分は〔作者の手を離れた〕別物と言わざるを得ないんです。たとえそれがどんな力作であっても〔…〕。」
さらにTempestは演者とオーディエンスの関係性をこのように述べている。
「意味を直感的に理解することとは語られている物事の間にあるリンクを見つけて、それらを結びつけること。パフォーマンスで起きているのはそういうことで、自分以外の誰かが空間にいるとき、誰かに話しかけているときに起こることです。誰かに話しかけるとき、その相手は、そこで発せられる言葉、つまり生きた真実の瞬間と繋がる言葉と同じくらい重要なんです。一人っきりの部屋で歌詞を口にする場合と誰かもう一人いる場合では同じことは起こりませんよね。
だから私はオーディエンスを賞賛すること、その場にいる人を称えることは大事だと感じています。だって観客の関心がなければ、皆が集まってエネルギーを引き起こしてくれなければ、こちらの言葉と同じ熱量で彼らも向き合ってくれなければ、そこにあるものは死んでしまうから。」
Kae Tempestはシンプルな事象をシンプルな言葉で分解し、綿密に分析した上で物事や詩のあり方を理解しているようだ。その哲学的にも見える行為の積み重ねが彼/女の作品に集約されていくのかもしれない。そしてこのFleaとの対話はまさに「同じ熱量」のぶつかり合いだった。
ここでさらに注目したいのはTempestのインタビューで頻出する「メンタルヘルス」というキーワードだ。当対談でもFleaが投げかけた「よく考えることは、これは僕の生涯の課題でもあるけれど、自分を愛する方法」という議題を皮切りに重要なトピックとなった。Tempestはこれに対して「あぁ……、素晴らしい質問ですね。それは日々、大変なこと」と反応した。なお、ステージに立つ人間は自分自身への愛の欠如と深い孤独を癒す試みとして、人前で必死に表現しようとするのではないかという意見も述べている。個人的にこれは27クラブの所以を立証し得るような力強い説に感じた。
また別の機会でTempestはステージ上でパニック発作を起こした体験を振り返り、そのエピソードが結果的には自身が内面に抱えている問題と向き合うきっかけにもなったと語っている。それは海外ツアー中、フェスティバルのオーディエンスを目の前に「死ぬかもしれない」と感じるほどの恐怖だったそうだ(注11)。
「ADHD、鬱、パニック障害、そして〔性別〕違和・抑うつ症」(注1)に悩まされてきたというKae Tempestは、創作、パフォーマンス、インタビューと、各過程でいかに自身の精神を守るべきか、心身に抱く問題をどの程度までオープンにするべきか、あるいは閉じておくべきかを常に考えてきたのかもしれない。その葛藤は「ノンバイナリー」のカミングアウト後、ジェンダーの文脈でも語られている(注1、注11、上記BBCドキュメンタリー予告編)。
《Ballad of a Hero》
『Let Them Eat Chaos』の世界観とKae Tempestの思想を探求していたところ、ある兵士の詩《Ballad of a Hero》と出会った。こちらは2014年出版の詩集 Hold Your Own に収録されており、以下のとおりライヴでも披露されている(*露骨な表現を含みます)。この作品の紹介をもって当記事を閉じたい。
(2015年7月21日更新)
(2014年4月7日更新)
戦争から帰ってきた父親を迎える家族の物語は、前半は息子に語りかける母の視点、後半は父の視点で語られる。勲章を授与され帰還したにも拘らず日がな落ち着かず塞ぎ込み、ほぼ機能不全となった父(注12)。そんな父を母と息子はそっと見守ることしか出来ない。しかしある時父はようやく家族の前で重い口を開き、戦地で体験したことを語り出す。その情景はあまりにも、むごく、凄惨なものだった(注13)。そして父は息子にこう言い聞かせる。
注・参考資料
ヘッダー画像:Kae Tempest公式YouTubeより
・The Guardian紙、The Observer Profile: Ka(t)e Tempest(2014年9月14日更新)
・スコットランドThe Skinny誌「Ka(t)e Tempestが語るLet Them Eat Chaos」(2016年11月28日更新)
注1:The Guardian紙、Kae Tempestインタビュー「煮えたぎるような秘密を胸にひた隠しにして生きてきた」(2022年3月12日更新)
ちなみにこの記事に掲載された写真は一枚を除きWolfgang Tillmansによるもの。Tillmansの作品は自身のゲイというセクシュアリティーが反映されたものも少なくない。またPet Shop Boysほかバンドのアートワークを手掛けた経歴もある。広義ではあるが性的マイノリティーであることと、エレクトロミュージックという音楽ジャンルへの従事といった共通項が写真家と被写体を結んでいるように感じた。
注2:ラジオ司会者James O'Brienによるインタビュー(2018年8月21日更新)
注3:ブレグジットを象徴する音楽
・ノッティンガム発、Sleaford Modsのアルバム『Divide and Exit』(分断と離脱、2014年)
続く2015年『Key Markets』収録の《Silly Me》にはサビに "Only to remember that you still remain, still remain, still remain" というフレーズがある。"Remain (残留)" という単語の繰り返しはEU残留への切望をほのめかしているように聞こえる。「ただ覚えておくために、それでもまだ君はここにいる(残留する)ことを」と。
・ティーサイド発、Benefitsの《Divide and Be Conquest》(分断し制服されよ、2020年)
翌2021年の《Flag》(国旗)は「世界の中にどう『大英帝国』を位置付けるかを理解するために」作られた楽曲で「ナショナリズムを利用する政治家達」を風刺している。
・スコットランド、グラスゴーの若手バンドWine Momsは2022年《Mr. Speaker》(英庶民院議長の呼称)という楽曲でEU離脱派の主要人物でもあったBoris Johnsonの国会答弁の音声をサンプリングして、当時首相だった同士について「奴はこの国を見ていない、自分で木っ端微塵にしたこの国を」となじっている。内容と時期的にコロナ対策の失敗への批判も込められていることが分かる。
・リーズ発、Yard Actの《Dead Horse》は極右団体National Frontに言及する箇所がある(2022年)。《Europe Is Lost》の注2も合わせ、ブレグジット投票前に右派政党UKIP(英国独立党)などが過激なキャンペーンを行なったことが思い起こされる。
・イギリスでもスポークンワードでもないが、英連邦国であるオーストラリア、メルボルンのデュオは自らをDivide and Dissolve「分断と解散」と名乗り、2020年に《We Are Really Worried About You》(あなたのことがとても心配)というシングルを発表している。本人達の意図は不明だが、バンド名も曲名も強烈な皮肉のように響く。ちなみにレーベルは英ブリストルのInvada。
注4:Independent紙「Ka(t)e TempestはグラストンベリーでTheresa Mayを批判し『人々の涙を誘った』」(2017年6月29日更新)
Theresa Mayは、ブレグジット国民投票の結果を受けて辞任したDavid Cameronの後任として、2016年7月に保守党党首となり首相に任命された。
2017年グラストンベリーにてKae Tempestは次のようにパフォーマンスの幕を開けた。
(一行目引用符 "Strong and stable" : 2017年総選挙時のMayのスローガン)
(最後の引用符 "I want to create a truly hostile environment." : 2013年当時Mayが内務大臣として新たな法案を提示した際の言葉。主に「不法移民」に向けられたもの。)
注5:プロデューサーはDan Carey。近年手掛けたバンドにGoat Girl、Wet Leg、Black Midi、Warmduscher、Fontaines D.C.などが挙げられる。さらに遡るとKylieやFatboy Slimのような先輩方の作品もプロデュースしているようだ。
注6a:BBCが事態を受けて「テロ」という表現をどのように扱ってきたか、またそれに対する国民や政治家の反応が分かる記事。(2023年11月22日更新)
注6b:2023年11月21日、以下の投稿でKae Tempestは "Musicians for Palestine" という草の根運動の一員として「停戦」を訴え、パレスチナの人々の「自由、然るべき和平、尊厳を追求する」共同声明を出している。ここにはBrian EnoやMarianne Faithfulといったベテラン陣や、日本人メンバーを含むDeerhoofなども名を連ねている。
注7:音楽記者のAlexis Peditrisは次のように批評している。
「〔Kae Tempestの作品が〕披露するリベラルが抱く悲嘆の一覧はかなり手垢がついており、その点は議論の余地があるだろう。しかしEurope Is Lostの中盤で金属音が鳴るリズムトラックに乗せてTempestの声が徐々に怒りで増幅するとき、そこには興奮を覚えざるを得ない。」(最終更新日不明)
ちなみに当British Councilのサイトには Let Them Eat Chaos 書籍版の内容もほんの少しだけ紹介されている。視覚詩のような言葉の並べ方からは書籍ならではの楽しみ方を垣間見ることができる。お試し版を開いてみるとタイトルページに "This poem was written to be read aloud" (この詩は声に出して読むために書かれた)と記してある。
注8:テレビやラジオのセッションでも異なる形が見られる。
BBCのニュース番組ではプロデューサーのDan Careyとふたりで《Tunnel Vision》の一部を披露していた。(2017年5月9日更新)
以下のラジオ収録では珍しくギターも使われている。(2017年5月11日更新)
注9:「他者の書き物を頭の中で読むとき」の誤り?
注10:ここでは「アルバム『The Book of Traps and Lessons』でもそうしたように」と述べているが、当記事の文脈から逸れてやや読みにくくなるため省略した。ちなみにこの対談は2020年出版のTempestの著作 On Connection 関連企画で、Fleaからの「好きな小説家は?」という最後の質問には、James Baldwin、Carson McCullers、James Joyce、Ursula Le Guinほか多くの名を挙げていた。
注11:作家Max Porterとの対談(2021年1月6日更新)
この機会では宗教も話題に上った。Tempest自身は無宗教だが父親がユダヤ人で、子ども時代に何度かシナゴーグを訪れたことがあるらしい。自ら家系の繋がりを感じるために親戚にユダヤ教の「ヨム・キプル(贖罪の日)」のお祈りを教わった際には、過去の集団的過ちに贖罪を乞う祈祷法があることを知り《Europe Is Lost》の一節と重なったという。熱心にそう語るTempestの様子からは彼/女のさらなる家族観や倫理観が窺えた。そして注6bに示した投稿と照らせ合わせると、彼/女もまた、世界に少なからず存在するパレスチナの平和を願うユダヤ系の人々のうちの1人であることも分かる。
注12:父親の様子は典型的なPTSDの症状のように見て取れる。
注13:父親に扮するKae Tempestが描写する戦争体験は五感に訴えかける生々しいもので、初めて聴いたとき吐き気を催した。私自身がすでにPTSDを患っているため平均的な人より過敏なのかもしれないが、実はその部分は怖くてしばらく聴けずにいる。戦争の現実から目を背ける自分に罪の意識を感じることばかりだが、せめて《Tunnel Vision》や《Eorope Is Lost》を聞きながら日本が犯してきた過ちも重ねて自問自答していきたい。
(以上、約19,200文字)