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好きをこじらせた話#3

あれから10年近くが経った。当時は、なまこの研究については失敗と後悔しかないと思っていた。けれども、苦しいが大切な思い出のひとつとなった。いまでは、なまこをはじめとするいきものを好きだとためらわずに話せる。
 
いきものについてはあまりうまくいかなかったが、ふと「好きをこじらせずにすんだものはないか?」と考えた。わたしにとって、それは本だった。
 
本が好きと言ってもとりたてて読書の量が多いわけではない。週に2冊のときもあれば、ここ数か月のようにほとんど手に取らない時期もある。
 
もともと本は苦手だった。こどものころ読んでいた作品の中に耐えられない描写があったからだ。たとえば『赤い靴』で主人公の足首が切り落とされたりするような場面だ。そんなシーンに一瞬でも出くわすと、忘れたいのに数週間は不意に思い出してしまう。児童向けの本でも、主人公に近い人物が食中毒で苦しみ、命を落とすような残酷な場面があり、本を読むと大きなショックを受けると学習してしまったのだ。
 
もちろんそうでない本もあったものの、幼稚園や小学校の読み聞かせの時間はびくびくしながらやりすごし、わたしは次第に本から遠ざかっていった。
 
小学校4年生のころ、いわゆる小説のような人が作る物語のほかに、身のまわりの「実際にあるもの」を解説する文章があることを知った。たとえば、教科書にはその特徴や作り方がわかる『アーチ橋の仕組み』が載っていた。これなら、題材を選べば心が苦しくなる描写に悩まされずにすむと思った。それから少しずつ本を読むようになった。
 
なるべくショックを受けることがなさそうな科学や文化をこども向けに説明した本を選んだ。いろいろな昆虫をつぶさに観察した記録や、世界の南から北までの住居の解説などから始まり、いつしか筆者と盲導犬との毎日や、漫画家の日常を綴ったエッセイも読むようになった。
 
いろいろな本に出会ううちに、徐々に苦手だった小説にも手を出すようになった。アメリカの大学寮に思いを馳せ、架空の市場で売られている熱々のおこわに舌なめずりをし、美しいアンドロイドに夢中になった。
 
いつものくせで、一時期は本を読んでいるだけで自分は偉いと思って得意になったり、本で学んだ知識をひけらかしたりすることはあった。それでも、読書やそれが好きな自分にはとくに執着しなかった。
 
もともと、苦手なところから始められたのがよかったのかもしれない。そういえば、物心ついたころから図書館で毎週本を借りてくる母親を見てきた。高校や大学へ行ったあとも、休み時間になるとすぐさま本を取り出すクラスメイトやいつもコートのポケットとカバンに本を入れている友人に出会った。そんな、ふつうに本を楽しむ人たちのおかげで、これだけは好きをこじらせずにすんだのだと思う。
 
本を読むたびに、わたしは新しい世界を知る。ただ文や言葉を辿るだけで心地よい。どこに行くかを決めずに散歩するように、読んだ道のりを思い出せなくてもいい。文章に入り込んでいるあいだは嫌なことも忘れられる。ほかの人のことも昔や先のことも浮かばない。頭や気持ちが空っぽになる。好きでいるだけでそのほかは「何もしなくていい」感じがする。だから、本とわたしはいい関係のままでいられるのだ。

※こちらは「自分を緩ませて解きほぐす文章を書くための1ヶ月オンライン執筆教室」で添削及びコメントいただいたものを反映させ、掲載しています。