【三国志の話】三国志学会第十七回大会
今年もオンラインで視聴しました。学会発表なので内容が難しいのですが、自分なりに理解したことを書き添えてご紹介します。
「三国志のテキスト批判―清朝考証学の史学における三国志と何焯―」
佐藤大朗(早稲田大学文学研究科修士課程)
三国時代そのものがテーマではなく、中国史研究者の研究手法がテーマ。
多くの専門書に、「中国人にとって歴史とは、実際にあったことではなく、実際にあったと多くの人が信じることを意味する」と書かれています。
実際にあったと信じるためには、史書=テキストが「理路整然として矛盾がない」ことが大事で、このことを、清代の学者章学誠や何焯の著作から確認しましょう、という話だと理解しました。
結論
清朝考証学の「実事」は、テキストを正しく解釈した結果を意味していて、「史実」とイコールではない。
ここからは、筆者が考えてみた一例です。
龐統は荊州南郡の功曹のとき周瑜の部下でした。周瑜死後に劉備に仕官したがぱっとせず、呉の魯粛の勧めで諸葛亮に次ぐ立場に抜擢されました(『蜀書』龐統伝)。
そこから、彼は呉が蜀に送り込んだ間者(=スパイ、回し者)だったとする説があります。
しかし、彼の弟の龐林は、夷陵の敗戦後に黄権とともに魏に降伏しています。もし龐統が本当に呉の間者だったら、弟である龐林は呉に戻ればいいではないですか。
つまり「龐統が呉の間者だった」と信じることはできないわけで、「実事ではない」。
史実としてどうだったのかは「分かりません」。間者だったにせよ間者でなかったにせよ、証拠がないから。
という感じでしょうか。
感想
うーん、面白くはないですね。まず基本を押さえようということでしょうか。
佐藤氏の指導教官である渡邉先生は、ご自身はどちらかといえば「実事」寄りで、「テキスト全体を読んで、例えば『劉備と諸葛亮は仲が悪いはずだ』という仮説を立てて、矛盾が生じないかの確認を重ねること」が仕事であると仰っていました。
それに対して司会の柿沼先生は、群雄のお財布事情とか、官僚の24時間の生活とかを史料から拾い集めるようなことが仕事だから、「史実」寄りと言えるそうです。
余談ですが、佐藤氏が何度か「しょうがくせい(章学誠)」と言うのが毎回「小学生」に聞こえて、そのたび笑いそうになって申し訳なかったです(笑)
「遼東公孫氏政権(遼燕)の国家像―公孫度・公孫淵の即位記事・独立記事を中心に」
青木竜一(東北大学文学研究科博士後期課程/日本学術振興会特別研究員DC)
近年、遼東公孫氏は三国と肩を並べる実力があったという説が有力になっているとのこと。
確かに、『魏志倭人伝』に出てくる倭国は、公孫氏がいるうちは魏に使者を送れなかったわけです。
公孫氏の燕国に国家としての実態はあったのか、ただ王を名乗っただけの名誉称号のようなものだったのか、がテーマ。
まず、王の実態には三種類あると説きます。
(会社経営での例えは、筆者の独自見解です)
天子としての王は、最高経営責任者つまりCEOです。その上に皇帝がいても、それは代表取締役ではない名誉職の会長。例えば、皇帝=劉協(後漢の献帝)、王=曹操(魏王)。
諸侯王としての王は、皇帝の親族が郡国に封ぜられている場合。皇帝がホールディングスのCEOで、王が子会社のCEOです。例えば、皇帝=曹丕(魏の文帝)、王=曹彰(任城王)。
外国の王は、文字通り郡県制の外側だから、規模の大小や統治の実績などに関わらずみんな王です。社外取締役のようなものか、あるいは朝貢を伴うことを考えると、大手企業が取引先をパートナーシップに認定したというのが近いのか。例えば、皇帝=曹叡(魏の明帝)、王=卑弥呼(倭王)。
公孫度・公孫淵が目指したのはどれだったのか。
青木氏は、公孫度の即位の記事から、名乗ったのは「平州牧・遼東侯」に過ぎないが、独立して天子になる意思はあった(=1を目指した)と見ます。
平州というのは後漢の制度にはなく、公孫氏の命名。侯の爵位も後漢の制度では郡に与えられるものではないので、本来は遼東「王」または(遼東郡の治所の)「襄平」侯が正しい。つまり、後漢とは違う制度を作ったということ。
さらに、皇帝の即位には二祖(高祖と光武帝)の廟に参拝するという儀礼を経ることが通例であるが、その廟を独自に建てている。
これで、禅譲以外による即位、例えば王莽の建国の前例にならう条件は揃えたことになると。
ただし、まだ王を名乗ってはいない。その後、孫の公孫淵が燕という国号を持つ王になり、紹漢という元号を建てました。
次に、漢や魏の皇帝がいるのに天子になれるのかというロジックの話。
ポイントは二つで、一つは、当時は三人も皇帝を名乗っていたのだから、皇帝のポストが軽くなっていたということ。
もう一つは、始皇帝から(高々)400年しか経っておらず、皇帝が当たり前の存在ではないから、王にでも天命は下ると考えられていたこと。
結論
公孫度・公孫康・公孫淵は、王であり天子であった。
青木氏はまた、曹魏・孫呉・蜀漢と呼ぶことにならって、ただの燕ではなく遼燕と称することを提案されていました。
彼らが選んだのは、中小企業が漢や魏という大企業の下請けではなくて自立するということですね。まるで、「下町ロケット」のようです。
感想
個人的には、一番面白い発表でした!!👏
司会の柿沼先生は「三国志学会は四国志学会になるのか?」とボケていましたが、青木氏は(当然ながら)真剣で、質疑では「王を名乗る必要性は何か」とか、「袁術の皇帝僭称との違いは」など多くの質問が来ましたが、うまく説明されていました。
前者は東夷諸国との関係で優位に立ちたいから。後者は遼東が辺境にあるため事実上外国の王の扱いであり、中央の知識人の眼中にはなかった、とのこと。
余談ですが、最初に柿沼先生が公孫度を「こうそんたく・ど」と両方で読んだことや、青木氏が毌丘倹(かんきゅうけん・ぶきゅうけん)を躊躇なく「ぶきゅうけん」と読んだことなどから、人名の日本語読みについては流派のようなものがあるんだなと感じられて面白かったです。
「禹の伝承からみる後漢・三国期四川の地域文化」
新津健一郎(日本学術振興会特別研究員PD)
後半の方を聞いていると、「(伝説の聖王)禹が(巴蜀の)石紐から生まれたという伝承の内容に特徴があり、成立時期と意図が推定できるのではないか」という話らしい。
具体的には、
伝承の内容と後漢以後の四川地方の文化状況と一致する傾向があり、三国時代の成立が濃厚
蜀学の中心に位置する蜀の学者(譙周)などの著作に禹の伝承が登場して、その後『華陽国志』に取り込まれた
それは蜀の滅亡前後と考えられる
これらを根拠として、新津氏が伝承の成立時期と意図を考察したということでした。
結論
禹の伝承は単なる民族伝承ではなく、地方政権であった蜀の正当性アピールの目的があったのではないかと考えられる。
質疑では、おそらく「司馬炎による讖緯の禁止は蜀学への圧力か?その後の(譙周の弟子の)陳寿による諸葛亮の称揚は、その圧力を受けてこの路線(禹の伝説の拡散)から路線変更したものか?」という意図の難しい質問が出ました。
質問がオンラインのチャットだったため意図がリアルタイムでは伝わらず、譙周らの著作の年代が判明しないので関連付けは難しい、という漠然とした回答になっていました。
感想
これは、そもそも何がテーマかの理解が難しかった。タイトルは前後を逆にして、「三国期四川の地域文化から読み解く、禹の伝承の成立過程」の方がすっきりするような気がしました。
『三国志演義』の新発見資料―「『三国志演義』版本の研究」その後
中川諭(立正大学文学部教授)
過去の研究
1990年代の研究で32種類の版本を調査した結果、「二十四巻系」、「二十巻繁本系」、「二十巻簡本系」、の三系統があるということです。
繁本、簡本というのはディテールが細かいか粗いかで区分されたものですね。
「二十巻簡本系」はさらに「志伝グループ」と「英雄志伝グループ」に分かれますが、関索が登場するかどうか、登場する場合は「花関索」という美名で呼ばれるかどうかがカギであるということです。
1993年に最初に発表され、1998年に出版された当時はこれが最高水準であったが、その後、版本比較プログラムの開発(周文業先生)や、新資料の発見などで、さらに研究が進んだとのこと。
渡邉先生からは系統図の更新を催促されたが、それにはまだ数年かかる(版本が失われている部分がある)、と話されていました。
結論
新発見資料のほとんどが簡本系で、しかも前半部分は繁本系で後半部分は簡本系をつなぎ合わせた「先繁後簡」が多い。
渡邉先生いわく、『三国志』は古典なので、古い版であればあるほど正しいが、『三国志演義』は創作なので、どんどん新しいものが出て洗練されていったと。
その過程を研究することで、例えば「吉川英治や陳舜臣はどの版をベースにしたのか」がより正確に分かるようになるのでしょうね。
感想
個人的には、正直あまり関心は持てませんでした。
渡邉先生によると、中川先生は学生のころから「『三国志演義』の版本の研究」をテーマとされ、今もなお同じテーマを研究するという、稀有な存在であるとのこと。それだけ奥が深いということで、きっと大変な研究なのだろうとは思いますが。
余談ですが、正史のほうで、「呉壱・韋曜ではなく呉懿・韋昭と書かれている古い版」がもしも見つかったら大発見だろうな、と思いました。
以上
貴重なお時間を使ってお読みいただき、ありがとうございました。有意義な時間と感じて頂けたら嬉しいです。また別の記事を用意してお待ちしたいと思います。