【三国志の話】孫堅の死をめぐる「三説鼎立」
はじめに
この記事は、2年前の記事「【三国志の話】三国志最大の謎とは?」をベースに再構成して、新たな記事として公開しています。
本記事では、三国の一つ呉を事実上立ち上げた名将孫堅の死に関する謎について、書いていきます。
孫堅はいつ死んだのか
正史
まず、陳寿は正史にどう書いているでしょうか。
死因は、黄祖の配下に矢を射かけられたとのこと。
この非常に簡素な記述の中に問題があると気づいたのは、5世紀の人裴松之です。
呉録
孫策伝の注として裴松之が採用した『呉録』には、孫策の上表文(つまり朝廷に提出した文書)が載っており、孫策は「17歳で父を亡くした」と申告しているのです。
孫策は建安5(200)年に26歳で死んでおり、そこから逆算すると17歳は9年前であり、初平2(191)年が正しいことになる。
あれ、「192年でもまだ孫策の誕生日が来ていなければ17歳だったのでは?」と思う人もいるかもしれませんが、当時の年齢は「数え」ですから、元日が来ると自動的に1歳増えるしくみです。
ちなみに、孫堅の享年は『正史』には書いてなく、『呉録』に37歳だったと書いてある。
つまり、孫堅は37歳で死んだと思っている人は、自動的に『呉録』を信じたことになるのです。
英雄記
同じく裴松之が「孫堅伝」の注として採用した『英雄記』では、このようになっています。
死因も正史とは違い、呂公の兵士が投げ落とした石が孫堅の頭に当たって即死したとのこと。
この死因は『三国志演義』で採用されたため、おなじみになっています。
日にちや死因が具体的だから説得力がありそうに思えるし、「孫堅が劉表を攻めたのは192年だとしても、長期戦になったら、戦死したときは翌年になっていたのでは?」とも考えられなくもない。
三説鼎立
整理すると、191年説、192年説、193年説の三説があるということになります。
191年説
正史『呉書』「孫策伝」の注『呉録』の孫策の上表と、孫策の没年齢から逆算したときの計算が合わず、正史『呉書』「孫堅伝」の記述が誤りだと裴松之が考察した
192年説
正史『呉書』「孫堅伝」の記述をそのまま解釈する
193年説
正史『呉書』「孫堅伝」の注『英雄記』に、193年1月7日と書いてある
そして面白いことに、現代の研究者・有識者の中でも、意見がきれいに分かれているのです。
(以下の分類は、あくまでも筆者が調べた範囲での傾向ということをご理解ください。)
第一の説
多数派は192年派で、何しろ「ミスター三国志」こと渡邉義浩先生が多くの著書の中で書いているし、監修する書籍でもそうなっています。
そのほかも、いちいち挙げるのがキリがないくらい多い(一例としては、コーエーのゲーム)。
第二の説
ついで多いのは191年派で、三国志学会会長(代行)の石井仁先生が、名著「魏の武帝 曹操」などで書いています。
満田剛先生は同著を引用して、「三国志 正史と小説の狭間」に採用しています。
また、正史ベースの著書が多い作家坂口和澄氏も、ここに属します。
第三の説
193年派は少数派ですが、「ちくま学芸文庫」の訳者である故井波律子先生が、例えば著書「三国志を読む」で書いているため、注目に値します。
ほかの著書、例えば「史記・三国志 英雄列伝」では、孫堅(157? ~ 193? )とした上で、「孫堅の没年については初平二年、三年、四年など諸説があり、一定しない。」と補足しています。
第四の説?
作家陳舜臣氏の小説「秘本三国志」では、孫堅が戦死シーンするシーンは非常にあっさりしている。
「矢が胸に突き刺さり、やがて意識を失った。以上。」という感じです。
それよりも、孫堅の死後、孫策の従兄孫賁に軍が預けられたことにこだわるところに特徴がある。
「秘本」の孫堅は生前、「孫策はまだ16歳だから世に出るのは早い」という趣旨の発言を何度もします。
そして彼の戦死後には実際に、孫策がまだ16歳だからという理由で、孫賁に軍が預けられました。
ここで191年説をおさらいすると、孫策は17歳で父を失うから191年だったという理屈です。
ということは、孫策が16歳で父を失うなら、190年だったということになってしまう。
これは、第四の説なのか?
ちなみに、作家宮城谷昌光氏の小説「三国志」には、孫堅が享年37であることを前提として、このように書いてあります。
古今の中国事情に精通していた陳氏ですから、おそらくこのような事情も理解していて、基本的には191年説を想定したのだと筆者は考えます。
そのうえで、現代の日本人に分かりやすいように、あえて数え年ではなく満年齢で「16歳だった」と改めたのだと想像します。
余談
地図のMAPPLEで知られる昭文社は、近年歴史の本も出版しており、三国志についても、「地図でスッと頭に入る三国志」(渡邉義浩監修)という書籍があります。
実は同書(第一版第二刷)の劉表に関するコラムに、「193年には孫堅を配下の黄祖が討ち取っています」と書かれていました。
筆者はそれを見て「渡邉先生のスタンスとは違っていて、おかしい」と思い、同社に問い合わせたのです。
回答としては担当者のミスで、「本稿の執筆者から監修の渡邉先生に確認
を取りましたところ、192年が正しいとのことでした。」と、同社が確認してくれました。
さらに「次回、追刷の機会の際に訂正させて頂きます。」とのことでしたので、もし同書に192年と書かれていたら、すでに訂正版が出ているということになります。
ご参考まで。
追記
2023年5月に第一版三刷が出て、確かに192年に訂正されていました!