【三国志の話】三国志学会 第十八回大会
今年はリアル会場で聴講しました。簡単にですが、内容をご紹介します。
自分が理解した範囲で内容を整理しましたが、記憶違いや誤認識があれば指摘いただけるとうれしいです。
毛宗崗本『三国志演義』における「忠」の方向性
鵜浦恵(慶應義塾大学専任講師)
毛宗崗本は現在最も読まれている版本で、同じ江南系に属する李卓吾本がベースとなっているとのこと。
毛宗崗本は一貫して劉備を仁の人とするが、周辺人物の忠義の表現には蜀漢一辺倒ではない工夫が見られるそうです。
発表者のこれまでの研究
曹操陣営であっても、漢王朝への忠誠心があるかどうかで評価を分けている。
例:程昱は徹底した反劉備の悪人だが、荀彧は漢王朝を守ろうとして曹操との距離があった人物との評価になっている。
例:張遼は、例えば関羽と戦う場面では許褚に変更されるなどにより、義の人であることが強調される。これに対して龐徳は、関羽と戦うために評価が低く、自ら望んで曹操に降るように脚色されて、より凶暴な性格が強化された。
劉備陣営であっても、蜀将との関係性によっては評価を下げている場合がある。
例:張松・法正・孟達はいずれも、劉備に益州を売り渡す行為を売国として批判されている。ただし、法正は蜀漢初期の謀臣として優秀という評価だが、孟達はのちに関羽を裏切ったために徹底して批判される。つまり、「法正>張松>孟達」という評価になっている。
孫権陣営であっても、曹操への戦意があるかどうかで評価を分けている。
例:黄蓋・闞沢・甘寧は「苦肉の計」を成功させるキーパーソンたちのため、好意的。それに対して、張昭らは不戦派の代表として冷淡な描写がされている。
今回の新規研究
孟宗崗は、キャラクターに合わせて細かい人物描写を加えていることが特徴である。
「忠義」という特徴で調べてみると、本文では圧倒的に(7割くらい)が劉備に対するものだが、孟宗崗個人の評語の部分では孫権その他への忠義の評価もあることが分かった。
孫権に対する忠
やはり、魏と戦う武将の忠義は評価する傾向にある。
例:黄蓋の忠を強調して、周瑜の智との複合効果を狙っている。「曹操と戦う=後漢への忠義」とする。(第46回)
例:于詮は呉将の立場で諸葛誕とともに戦い、王基・司馬昭に降伏しなかった。孟宗崗は忠臣と評する。(第112回)
例:桓彝は孫綝を罵って斬り殺されるが、孫綝=呉の逆臣とういうことで、李卓吾に比べて主君孫亮への忠義を評価するように変更がされている。(第113回)
曹操に対する忠
曹操陣営にも忠臣がいることは認めていて、悪役としての強さや狡さを強調するなどの逆説的な意味で使われる。そこに正当性は認めていない。
例:楊阜が馬超と戦い、韋康の仇を討ったことを義とする。(第64回)
(筆者補足)配布資料には、"孟宗崗は「曹操の忠臣と言うべし」と評している"と書かれています。筆者の聴講メモでは、"蜀将の馬超と戦うことは忠にはならず、代わりに義として評価される"となっています。
例:華歆が献帝に曹丕への禅譲を迫ることを魏に対する忠とするが、それは好意的ではなく、権力におもねる悪人としての印象を強調する目的。(第78回)
さらに、曹操は後漢を簒奪した悪者だが、司馬懿はその魏を簒奪したことで、もっと悪者の扱いになる。
そのため、毌丘倹や諸葛誕は、魏に対する忠臣として好意的に評価されている。李卓吾は、ただ勇壮だとして、魏への忠は認めていない。
この論理で言えば、孟宗崗にとっては曹芳・曹髦は献帝と同じ立場なのではないか。(要精査)
例:諸葛誕の反乱の場面で登場する上表文は、李卓吾本は楽綝の罪を訴える内容だが、孟宗崗本は司馬師の悪事を訴える内容に変更している。
諸葛誕に限っては、諸葛一族だから評価されるというバイアスがあるかもしれない。
(筆者の心の声)え、諸葛補正?面白い!
劉璋に対する忠
劉備の敵対者であっても、忠として認めている。益州の人材が忠義者揃いであると持ち上げるためか。(仮説)
例:黄権、李恢、王累らは、劉璋が劉備に益州を明け渡すことに反対する。孟宗崗は彼らを忠臣であったと評する。(第60回)
質疑
Q. 劉璋に対する忠は、劉備の益州攻めが批判されるなどの評価とはリンクするか?(二松学舎大学 伊藤先生)
A. 今回の調査の範囲は演義の作品に留まっていて、劉備の益州攻めの評価が時代によって変化したこととの関連の調査は足りていない。
Q. 劉璋と似た事例として、韓馥が袁紹に冀州を譲る場合や、劉琮が曹操に荊州を明け渡す場合にも反対する家臣がいたが、それらも同じく忠と評価されているのか?(筆者)
A. 自分が調べた中では、そういう例は見つからなかった。
感想
三国志に関するというより、中国において儒教的な善悪の評価が時代によって揺れ動いているという研究のように思います。
筆者にとっては、残念ながらあまり興味がない内容でした。
『三国志演義』における紀年表現について
竹内真彦(龍谷大学教授)
竹内先生は中国古典小説研究会の会長で、三国志学会への貢献度が高い先生とのこと。
紀年表現=年号表記のことで、三国志演義は年号が正確な歴史書を目指したのか、歴史小説として面白ければよいものか、というのがこの発表の内容のようです。
小説か?
中国の「小説」は、分類できずにその他に分類されたもので、講談のように芸能のジャンル。
そして、『三国志演義』は当初から小説だったのではなく、後世の人間が小説に分類したと考えられる。
歴史書か?
『三国志演義』の序文に、「本文は陳寿が書いて、羅貫中が編次した」と書いてあるので、それが公式見解である。
つまり、羅貫中は創作をしたかったわけではなくて、紀伝体を編年体に編集し直したという意識だった。
魏・呉・蜀それぞれの元号で書かれた年号が同じ年かどうかを突き合わせることは、実は面倒くさい作業。
それでもなんとか年代順に並べようという努力が見え、歴史書としての意識が強い。
しかし、創作部分も含めて無理やり順番に並べようとしたことで、矛盾が生じてしまった。
例:『演義』では、孫堅は初平3(192)年11月7日に37歳で死んだことになっている。ただし、その報告を聞いて董卓が喜ぶ場面があり、史実では董卓は192年4月に死んでいるため、矛盾がある。当初は孫堅の死は「辛未」つまり初平2(191)年のつもりだったのだが、演義ではどこかで初平3年に書き変わってしまったのだろう。
(筆者補足)以前筆者がこの記事で書いたように、孫堅の死亡年は諸説あって確定していません。
例:『演義』での「三顧の礼」の場面は、建安12(207)年11月、同12月、翌208年1月の三回、劉備が諸葛亮を訪問したことになっている。史実では、諸葛亮は建安12年のうちに出仕しているので、矛盾がある。
歴史書から小説へ
これらのような矛盾に気づいた後世の編者は、矛盾を解消するために年号を削っていった。
例えば孟宗崗は、関羽が死ぬあたりまでは積極的に年号を削っている。
むしろ年号はない方がいいという判断だが、それによりテキストの質が変わってしまった。
つまり、小説として出来が悪いので、ちゃんと小説として編集しようという動きになった。
もともとは史伝、つまり『春秋』を補足した『春秋左氏伝』のように、歴史書を分かりやすく補足したものだったが、徐々に小説として書き換えられていった。
質疑
Q. 史伝つまり『春秋左氏伝』のようなものということだが、歴史書である『史記』にすらフィクションが含まれている。『演義』にも貂蝉などのフィクションが含まれているが、やはり史伝という扱いでよいのか?(二松学舎大学 伊藤先生)
A. 想定する読者のレベルの問題で、我々が思うほどフィクションだとの認識がなかったのでは。昨年の早大佐藤氏の発表のように、歴史的事実を重要視していなかったのではないか。例えば身長の話なども、あり得ない数値を何の疑問も持たずに採用している。いろいろなものを未検証のまま取り込んだのではないか。
(筆者補足)あといくつか質疑応答がありましたが、筆者の理解が追いつかなかったため、省かせて頂きます。
感想
こちらは面白かったです!!
正史の紀伝体は時間経過を追うのに適していないが、しかし『演義』は創作が多くてしかも蜀漢へのバイアスが強い。
だから、「演義のストーリーの流れを活かしつつ、史実をベースに再構築した小説を書きたい」と考えたことがある三国志ファンは多いと思います。
そういう人たちに力を与えてくれる研究だと思いました。
さいごに
実は、筆者はここで会場を後にしました。ですので、このあと、
第五回三国志学会賞授賞式
受賞作 大上正美氏『嵆康の方法 --- 文学としての「論」』
というイベントと、
「書かないという叙述行為ー『三国志』を事例に」
永田拓治(阪南大学教授)
という発表が予定されてましたが、筆者は聴講しませんでした。
地方在住者だけでなく、筆者のような関東在住者であっても、オンライン配信なら移動時間が必要ないというメリットがあるので、くどいようですがこの記事でもオンライン配信の復活を希望したいと思います!
参考:昨年の記事はこちら。