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【三国志の話】「三国志の登場人物リスト」を作る(その5 長命編)
個人的にまとめつつある三国志の登場人物リスト。
その1では総人数の見積もりを出し、その2では同姓同名の人たち、その3では面白い名前の人たちを、それぞれリストアップしました。
前回(その4)は、短命に終わった人たちの紹介でした。今回は逆に、長生きをした人たちです。
はじめに
長生きした三国志の登場人物といえば、一般的には孫権や司馬懿、黄忠のイメージかと思います。
しかし実際には、孫権は71歳、司馬懿は73歳で亡くなっています。(以降も含めて、年齢は全て数え年)
孫権は50年以上も呉に君臨し、司馬懿はライバル諸葛亮との比較で、それぞれ長生きした印象が残るのでしょう。
黄忠は『三国志演義』では高齢で大活躍し、「老いてますます盛ん」の代名詞になっていますが、少なくとも『正史』からは年齢は読み取れません。
ここでは、実際に長命だったと判明している人物を紹介します。
1位:来敏(生没年不詳) 97歳
字は敬達、義陽郡新野の人。
『左伝』および訓詁の学に詳しく、劉璋(りゅうしょう)の賓客を経て、劉備の蜀平定後に典学校尉となり、劉禅のときに虎賁中郎将から光禄大夫に昇進した。
出陣まぎわの費禕(ひい)に、別れの挨拶に訪れ囲碁の対局を所望し、その胆力を試した。
景耀年間に九十七歳で死んだ。
彼は『蜀書』に伝があります。列伝に没年齢が書いてある人物の中では、最も長命だったと言えます。
2位:呂岱(161-256) 96歳
字は定公、広陵郡海陵(かいりょう)の人。
一地方官から身を起こし、孫権(そんけん)の厚い信任を得て力をたくわえ、長沙三郡を奪取、反乱の絶えない交州を平穏に導いて安南将軍に昇進、都郷侯に封ぜられた。
また南方の九真を平定して鎮南将軍の称号を授かり、孫亮(そんりょう)即位後は大司馬となった。
6位の士燮が226年に死去したあとに、士一族の抵抗を排除して交州を統治した将軍です。
3位:司馬孚(180-272) 93歳
字は叔達。司馬懿の弟。
温厚謙譲な人柄で学識があり、魏の明帝(曹叡)に仕えて尚書令となった。
曹爽(そうそう)一派の誅滅に功績をたてて侍中となり、晋朝創建後は安平王に封ぜられた。
司馬懿の一歳下の弟で、甥の司馬師・司馬昭よりも長く生きました。
『司馬懿~軍師同盟』では、↑こんなイケメン俳優が演じているようです。
4位:孟光(生没年不詳) 90余歳
字は孝裕、河南郡洛陽の人。
後漢末の混乱を避けて蜀に逃れ、劉焉、劉璋、ついで劉備に仕えた。
博覧強記で漢の制度に精通し、議郎として蜀の宮中制度を整えた。
後主劉禅(りゅうぜん)のとき大司農となったが、相手かまわず直言したので、あまり昇進しなかった。
のち、ある事件に連座して免官となり、九十余歳で死んだ。
この孟光や1位の来敏、番外編に書いた譙秀など、気のせいか蜀の人物に長寿が多いような気がします。
山に囲まれて健康的な生活ができるのか!?
4位:趙岐(? - 201) 90余歳
京兆の人。董卓(とうたく)から太僕に任ぜられた。
それより前、宦官の唐衡(とうこう)の迫害を避けて北海へ逃げ、餅を売って暮らしたこともある。
『孟子章句』『三輔決録(さんぽけつろく)』など膨大な著作がある。
彼については、当初情報が不足していました。
『魏書』には彼の伝はなく、「三国志全人名事典(徳間書店)」にも年齢は書いていない。
ところが『後漢書』には彼の伝があることを知り、それを見たら実は長寿だったと分かりました。
(略)
曹操は時に司空と為りしが、挙げて以て自らに代えんとす。光録勲の桓典と少府の孔融、上書して之を薦め、是(ここ)に於いて就きて(趙)岐を拝して太常と為す。
年九十余、建安六(201)年卒す。
6位:高柔(174-263) 90歳
字は文恵、陳留郡圉(ぎょ)県の人。
袁紹(えんしょう)の部将高幹(こうかん)の従弟にあたる。
袁紹が滅ぼされたのち曹操(そうそう)に仕え、魏の文帝(曹丕)・明帝(曹叡)にも重用された。
曹爽(そうそう)誅殺に際しては行大将軍軍事として大功を立て、万歳郷侯に封ぜられた。
曹髦(そうぼう)の即位にともない、安国侯に封ぜられて太尉に進んだ。死後、元と諡された。
孫策・周瑜の一歳上で、魏では曹純・李典と同年の生まれ。
蜀が滅亡するころまで生きました。
6位:士燮(137-226) 90歳
字は威彦、蒼梧郡広信の人。
家は前漢末以来の交州の豪族で、若いとき都に遊学して交趾(こうし)太守となり、動乱のなかでも漢の朝廷への貢納を絶やさず、安遠将軍に任ぜられた。
210年、孫権(そんけん)が交趾に支配を広げると、帰順して交趾太守のまま左将軍となり、のち衛将軍に任ぜられた。
こちらは、長く交州を支配した豪族です。
番外編
どの国にも仕官しない在野の士、とくに隠者とか隠士と呼ばれる人たちに、長寿の伝説が多く残っています。
どこまで信じるかのレベルですが、「仕事のストレスがないと長生きできる」という相関関係があるのかもしれません(?)
焦先 百七十歳?(百余歳、八十九歳など、諸説あり)
後漢末の隠者。冬も夏も衣服を着ないという奇人。
張臶 百五歳
魏の隠者。讖緯(=予言)の学を身につけ、常山に隠れ住んだ。
樊阿 百余歳
医者。華佗の弟子で、鍼治療にすぐれた。
譙秀 九十余歳
晋の隠士。蜀の光禄大夫譙周の孫。
樊阿は、華佗が考案したという健康法「五禽戯」を実践していたのかもしれませんね。
五禽戯については「三国志大文化祭2023」で紹介されたので、こちらの記事もぜひご覧ください!
余談
生没年は分からないが、「本当なら大変な長生きだったに違いない」と思える「謎の人物」がいます。
匈奴の王族呼廚泉です。
195年に兄於夫羅の後を継いで南単于となり、216年には鄴で曹操に会っています。
そのとき同族の去卑に単于の座を譲って、自身は魏にとどまりました。
建安21年(216)年秋七月、匈奴の南単于呼廚泉がその配下の名王をひきつれ来朝した。(曹操は)賓客の礼をもって待遇し、そのまま魏にひき留め、右賢王の去卑にその国をとりしきらせた。
そして、その50年近く後、『晋書』に再登場します。
265年に晋の武帝(司馬炎)の即位式に参加し、さらに277年にも挨拶に赴いているのです。
180年前後に生まれて90年以上生きたのか、別人の記録が混同されているのか、いずれにせよ今のところは文字通り「謎の人物」ですね。
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