【読書感想文】正義と微笑
そもそも太宰治じたい、そんなに読んだことがなく、そんなにというか、「斜陽」と「走れメロス」のみ。これはタイトルに惹かれて。それとネットで始まりの時の物語みたいなものをみて、ちょっと仕事関係で変化があるので、そんなスタートの意味を込めて読んでみた。それの感想のような何か。です。この「正義と微笑」という言葉。すごくいい。この言葉に惹かれる人はたぶん内容も何か感じるところがあると思う、たぶん。
微笑もて正義を為せ! 爽快な言葉だ。 以上が僕の日記の開巻第一ペエジ。
さて、感想の前に簡単に内容を振り返る。これは16歳の折川進くんの日記である。19歳くらいまでだったかな。世の中を斜に構えてみていて、いいとこの坊っちゃんが中二病こじらせて、「俺はお前ら白痴とは違う」と思っている少年、というか青年。そんな彼がさまよいながら自身の今後について、あれこれ考え、行動していく物語。簡単に書くとこんな感じ。
僕には、この折川進くんの気持ちが痛いほどわかる。というか、日記を10代に日記を書いていた人なら、おそらく共感する部分が多いのではないだろうか。
僕も大学入試がすべて終わったその日から日記をつけ始めた人だ。随分前にだいぶ不定期のブログに移行したが、それでも2006~2011くらいまでは、ノートに書いていた。
本書を読んで自分の日記を見返してみたくなり、家の中をあさってみた。ちょうど引っ越す予定があったのでグッドタイミング。荷物の梱包がてらそいいつは見つかった。恐る恐るその「始まりの時」のページを見てみる。すごく恥ずかしかったが、10年以上ぶりに18歳の自分と対峙した。
2006/2/26(日)雨 今日から日記を書くことにした。特に理由はない。昨日で僕の長い受験生活がひとまず終わった。あとは結果を待つだけということで、今日は朝から髪を切りに行き、ミラクルカットをしてもらった。それからは疲れたので寝た。「卒業旅行」の誘いを受けたが断った。「夏の僕」であったら、僕は喜んで受けてただろうが、今は話が違う。これでよかったんだと思う。今日で始まったばかりだが続けて書いていけたらと思う。
これだけの簡単な内容。でも僕には、痛いほどこの内容が意味していることがわかる。「正義と微笑」を読み、改めて日記の始まりを読んで、確信した。
この時から、僕の大人としての歩みはスタートしたんだ、と。
この瞬間がなければ、おそらく僕は今こうやって文章を書くということを通して、考えを整理したり、深化させたりすることができなかったんだろうと思う。
ここから最初は無意識のうちに文章を書く、他の誰でもない自分に向けた文章を書く、ということを通して、悩み、喜び、怒り、そして、悩む、この繰り返しを適切なステップを踏みながら踊り続けてこれたんだ。
最初の数日を読んで、それっきり他の日の日記は読んでいない。とにかくどんどん僕の日記は長くなっていった。それほど、自分に対して書きたいこと、伝えたいことが多かったんだと思う。そうやってうまく自分と語り合うんだ。話すのは得意じゃない。あれこれ話せる友人が多いわけでもない。だから自分に対して、しっかりと向き合うようにした。
んで、「正義と微笑」の折川君の内容を見ていると僕の日記と共通する部分があって面白い。当時を思い出す。今もかもしれないが。日記を書いたことがある人には”日記あるある”だったりするのかもしれない。あまりそんな人と話をしたことがないからわからないけど。
まず、日程が飛び飛びになる。やっぱり毎日は書けないので。飛ぶときはそれこそ1週間とか2週間とかひどいときには、1カ月くらい飛ぶ。僕は初期それが嫌で、書かなかった日も当時を思い出して、1週間くらいまとめ書きをしていた。それはそれは時間がかかって、今思い出してもよくやったもんだ。しかも手書きで。
次に、ちょっとしたことでの浮き沈みが激しすぎる。その日の誰かの言動についていちいち言及して、ある日にはそれこそ数ページにもわたって悩みまくる、若しくは、怒りまくる。それが次の日には、コロッと手のひら返しして、喜んだり、「あいつはやっぱり最高だ!」みたいな内容になったりする。この辺はまさに当時を思い出して、すごく楽しかった。こういう思考のトレーニングというか、想像力の訓練になっていたのかもしれない。あらゆることを考えまくる。とりあえず書くからスイッチが入り、どんどん書きたいことがあふれてくる、みたいな。
人間の価値が、わずか一時間や二時間の試験で、どしどし決定せられるというのは、恐ろしい事だ。それは、神を犯す事だ。
「学校っていやなところさ。だけど、いやだいやだと思いながら通うところに、学生生活の尊さがあるんじゃないのかね。パラドックスみたいだけど、学校は憎まれるための存在なんだ。僕だって、学校は大きらいなんだけど、でも、中学校だけでよそうとは思わなかったがなあ。」
お説教している人を、偉いなあと思った事も、まだ一度もない。お説教なんて、自己陶酔だ。わがままな気取りだ。本当に偉い人は、ただ微笑してこちらの失敗を見ているものだ。けれどもその微笑は、実に深く澄んでいるので、何も言われずとも、こちらの胸にぐっと来るのだ。ハッと思う、とた
んに目から 鱗が落ちるのだ。本当に、改心も出来るのだ。説教は、どうもいやだ。
もう一つ、書きたいことが多すぎて、どんどん長くなる。これはさっきもちょっと触れたかもしれないけれど、どんどん書きたいことが湧いてくる。特に何かイベントが発生した日なんかは、もう楽しみ楽しみ。気づいたら、年ページも書いている。振り返ると本当によくここまで書いたな、と思う。
本当きっかけなんてよくわからない。当時の僕は、おそらく高校生活に辟易していて、受験も終わったし、さっさと新しい環境いきてーな、と思っていた。結果的に大学に行っても同じだったんだけど。まさに折川君と同じとか言ったら怒られそうだけど、「俺はお前らとは違うんだ」と完全に斜に構えていた。僕は臆病だったから、心の中で思っていただけで、表面上にはださなかったけど、よく「つまんねーなーこいつら」とか普通に思ってた。早く本読みたいな、とか。
特にこの受験期は。日記の1ページからもわかるように、もう高校に未練なんて何もなかったし、このタイミングで一度友人関係をほぼリセットしてるので、本当に卒業式も行きたくなかったし、行かないでおこうと本気で思っていたくらいだった。でも、行かなかったら、受験失敗したとかおもわれそうだから、あえて堂々と出席してやった。僕はいつでもそうなのだ。
卒業式の前日、学校終わりには友人とつるむことなく速攻帰って、謎に「仮面の告白」を買って、自転車でよくわからない地域までいき、読んだりしていた。三島由紀夫なんて、全く知らないのに、そんなことをしちゃう。誰も見てないのにそんな行動をして悦に浸っちゃうようなやつなんだ。
そんな表と裏を使分けていた自分にとっては、日記というのは、必然というべきか、自身をコントロールする機能になっていたのかもしれない。多感な10代後半~20代前半。この時期に日記を書いていて本当に良かったと思う。リアルにこれが僕の今の人格形成に大きく影響している。
正直に進んだら、何事もすべて単純に解決して、どこにも困難がない筈だ。ごまかそうとするから、いろいろと、むずかしくなって来るのだ。ごまかさない事。あとは、おまかせするのだ。心にそれ一つの準備さえ出来ていたら、 他には何も要らないのだと思った。
善く且つ高貴に行動する人間は 唯 だその事実だけに拠っても不幸に耐え得るものだということを私は証拠立てたいと願う。」これは、ベートーヴェンの言葉だが、壮烈な覚悟だ。昔の天才たちは、みんな、このような意気込みで戦ったのだ。折れずに、進もう。
こうやって大人になっていくんだな、としみじみ。いつからどうやって大人になるのかなんてよくわからないし、明確な答えなんてないんだろう。かつ、人の数だけそんな大人への道なりはあるのかもしれない。
例えば、僕が日記を書き始める前、若しくは、書いている途中。それこそ高校生の時にこの「正義と微笑」に出会っていたら、どう感じただろうか。素直に、そうだそうだ、と受け入れたのか。太宰治の小説に出てくる主人公と似ていることを認めずに離れただろうか。それはわからない。わからないけど、高校生の時に読みたかった。これもいまだから思える話。
ちなみに、僕の日記の1ページ目の前、表紙にはある言葉が書かれていた。完全に忘れていた言葉。
私たちの人生は、私たちの費やした努力だけの価値がある。 by モーリアック
どこでこんな言葉と出会ったのかはわからない。でも昔からこういうの好きだったんだな、自分。恥ずかしさとちょっとの安心と。それにしても当時の自分かっこよすぎだろ。
これからも自分と向き合うために文章を書き続ける。他の誰でもない。僕自身のために。僕自身を理解するために。でも、それが結局誰かのためになる文章になる可能性もある。誰かの何かに隕石が落ちるかもしれない。別にそれを狙うわけじゃないけど、そうだったらなんかうれしいな。
正義と微笑。相変わらずいいタイトル。綺麗な言葉。
微笑をもって、正義を為す。
まじめに努力して行くだけだ。これからは、単純に、正直に行動しよう。知らない事は、知らないと言おう。出来ない事は、出来ないと言おう。思わせ振りを捨てたならば、人生は、意外にも平坦なところ
勉強というものは、いいものだ。代数や幾何の勉強が、学校を卒業してしまえば、もう何の役にも立たないものだと思っている人もあるようだが、大間違いだ。植物でも、動物でも、物理でも化学でも、時間のゆるす限り勉強して置かなければならん。日常の生活に直接役に立たないような勉強こそ、将来、君たちの人格を完成させるのだ。何も自分の知識を誇る必要はない。勉強して、それから、けろりと忘れてもいいんだ。覚えるということが大事なのではなくて、大事なのは、カルチベートされるということなんだ。カルチュアというのは、公式や単語をたくさん暗記している事でなくて、心を広く持つという事なんだ。つまり、愛するという事を知る事だ。学生時代に不勉強だった人は、社会に出てからも、かならずむごいエゴイストだ。学問なんて、覚えると同時に忘れてしまってもいいものなんだ。けれども、全部忘れてしまっても、その勉強の訓練の底に一つかみの砂金が残っているものだ。これだ。これが貴いのだ。勉強しなければいかん。そうして、その学問を、生活に無理に直接に役立てようとあせってはいかん。ゆったりと、真にカルチベートされた人間になれ!