ランジャタイが私の人生に与えた衝撃
先月、M-1グランプリで初めてランジャタイを見た。私はそこで衝撃を受けた。
「漫才ってこんなに自由でいいんだ!」
と強く思った。新しい漫才の形を見た。私は評論家みたいなことを言えるような器でもないし、そういう意味でこの言葉を言うつもりもない。ただ私は衝撃を受け、感動したということが言いたいのだ。
爆笑問題の太田光さんが時たま話すエピソードがある。それは、彼が何を見ても感動できず「死んでもいい」と思っていた高校生の頃、ふらっと訪れた美術館でパブロ・ピカソの『泣く女』を見た時のことだ。彼はこう懐古する。
たまたま美術館行ってピカソの絵を見た時に、急に感動が戻ってきたの。何を見ても感動できなかったんだけど、ピカソが理解できたってわけじゃないんだけど、その時の俺には『こんな自由でいいんだ表現って』っていうことで、そこからいろんなことに感動して、いろんなものを好きになる。
「こんな自由でいいんだ表現って」
太田上田でこの話を聞いて以来、太田さんのこの言葉がずっと胸にある。ピカソの絵を見てそう思う太田さんの感性が好きだ。思えば、私の太田さんに対する最初の印象は「自由な人」だった。彼は、お笑いにおいて何かを表現する時、それを実践しているのかもしれない。
ランジャタイを初めて見て、「漫才ってこんなに自由でいいんだ!」と感動して余韻に浸っていた時、太田さんのこの言葉を思いだした。なんだか嬉しかった。高校生の頃の太田さんと高校生の自分が、何かを見て同じ感想を抱いたということに対してではなく、「自由だ!」と思えたことそのものや「自由だ!」と思った自分自身、そして「自由だ!」と思える作品に出会えたことに対して嬉しいと感じた。
上記の言葉に加え、さらに彼はこう続けている。
好きになるってことは、それに気づけた自分を好きになるってことで、それっていうのは、人でも文学でも映画でも何でもいいんだけど、そういうことに心を動かされた自分て、捨てたもんじゃないなって思うと、他の生きている生物や人間たちの命も、やっぱり捨てたもんじゃないって思える。
これも、サンジャポや太田上田で聞いたことがある。今ならその意味がよく分かる。何かを好きになったとき、それを感じることができた自分も自ずと好きになる。
私は太田光さんが大好きだ。そして、彼が大好きな自分が大好きだ。彼はお笑いに一途で、どんなことをしてでも笑わせようとする。私はそんな、お笑いに熱心で自由な彼が大好きだ。彼から学んだことはたくさんある。課題や受験勉強で自分を見失いそうな時、太田上田で自由にはしゃいでいた太田さんを見て大笑いして、「もっと自由に生きよう」と思った。今まで以上に真面目ではなくなったし、成績も少し落ちたが、自分は自分のままでいることができた。先生からの評価や成績よりも、自分が一番大事だと気づくことができた。彼には感謝してもしきれない。
私はランジャタイが大好きだ。そして、彼らが大好きな自分が大好きだ。18年間生きた中でも新しいジャンルの衝撃だ。ステージを所狭しと機敏に動き回り、ジェスチャー、パントマイム、声、表情など色んな方法でお笑いを表現する、その自由さが大好きだ。型にはまらず、自分達のやり方で表現して人を笑わせる、その技術に脱帽である。「自由だ!」と思うと同時に、「自分達のスタイルを確立していてカッコいい」と思った。
私のこれからの人生のテーマは、「自由」から「自分らしさ」となるだろう。何においてかはまだ分からない。生き方や考え方から勉強の仕方まで、なんだっていい。今後しばらくは、これを模索する人生となるだろうし、そういう人生にすると断言する。太田さんによって植えられた自由の種は、ランジャタイによって開花し、新たにランジャタイによって自分らしさの種が植えられた。次、この種を開花させるのは誰だろうか。またお笑い芸人だろうか、それとも私自身だろうか。