見出し画像

「目的意識」をめぐる教育的価値とベンヤミンの目的—手段批判


小学校教育などの現場では「目的意識をもたせることが大切」「目的と手段の一致をはかることが重要」といった言葉がよく聞かれます。一方で、ウォルター・ベンヤミンの思想、とりわけ「暴力批判論」に示される目的—手段図式への批判を知ると、こうした「目的意識」の強調に対して違和感や息苦しさを感じることがあります。ここでは、ベンヤミンの議論を手がかりに、教育における「目的意識」がどのような意義と危うさを含んでいるのかを考察します。


1. ベンヤミンの目的—手段批判

ベンヤミンは「暴力批判論」(1921年)で、“高邁な目的”を掲げさえすれば、どのような手段(ときに暴力)も正当化されるという近代的思考を厳しく批判しました。国家の法や権力が「公共の利益」「正義」といった大義名分を掲げることで、手段の是非を問わず目的だけで行為を肯定してしまう構造に大きな警鐘を鳴らしているのです。

また、「複製技術時代の芸術作品」では、芸術が本来もっていたオーラ(独自性)が複製技術によって失われ、政治的利用やプロパガンダなどの目的に従属しやすくなる一方で、新しい大衆的・批判的機能が開かれる可能性にも着目します。いずれの場合も重要なのは、目的が固定化されることで手段や人間が道具化される危険に注意を促している点です。

2. 教育現場における「目的意識」の有用性

一方で、教育の文脈で語られる「目的意識をもたせる」という言葉は、多くの場合、
• 授業のねらいや到達目標を子どもに提示して学習意欲を高める
• カリキュラムに沿って学ぶ意義をはっきりと共有し、評価と指導を連動させる
といった教授学習上の工夫を指します。これらは、漠然とした学習ではなく、学習内容とゴールを意識的にむすびつけることで子どもの主体性を刺激する効果があり、決して無意味なものではありません。

3. 硬直化のリスク:違和感の背景

しかし、上記の教育的有益性を認めつつも、「目的意識をもたせる」という言葉を聞くと息苦しさや拒否感を覚える人がいるのも事実です。これは、ベンヤミンが批判したように、ある目的のためにすべての手段や活動が“役に立つかどうか”だけで測られるようになると、創造的な寄り道・子ども自身の興味から生まれる独自の学びを抑圧する危険が生じるからです。

さらに、目的が外部(国家・社会・管理者など)から一方的に設定され、そこに子どもや教師が従属させられる形になれば、教育そのものが“上意下達の道具”化される可能性もあります。こうした構造は、まさにベンヤミンが警戒した「正しい目的があれば手段は問わない」という思考に通じるのです。

4. 両立への道:目的の柔軟な設定と手段そのものの価値

では、教育において「目的」をもたずに学ぶべきかというと、現実的には難しいでしょう。そこでポイントになるのは、目的と手段の関係を固定的にしすぎず、常に問い直しや再設定が可能なかたちで開いておくことです。
• 目的の背後にある価値観や意図を教師自身がふりかえり、子どもに対しても共有する
• 手段=プロセスにこそ学びの豊かな体験や創造性があると認め、目的からはみ出す活動も尊重する
• 子どもごとに異なる“個別の目的”や“副次的な学び”を肯定する

こうした柔軟な姿勢があれば、目的意識を持ちながらも、ベンヤミンが危惧した“道具化”や“一元的評価”の落とし穴を回避しやすくなります。

結論

ベンヤミンは近代社会に根強い「目的—手段」の図式にひそむ暴力性や硬直化を批判し、手段や行為の内在的価値を回復することの意義を説きました。一方で、教育現場での「目的意識をもたせる」という実践は、学習のねらいを明確化することで子どもの主体性を高めるなど、一定のメリットをもっています。両者を単純に対立させるのではなく、目的を問い直し、手段に価値を認めるという柔軟なアプローチを選ぶことで、教育の現場における「目的意識」は硬直化を避け、より豊かな学びを実現するための助けとなるでしょう。

イラストの色味を見ていたら、何となくフレイレの評価の話に接続してはどうかとひらめいた。

いいなと思ったら応援しよう!