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【コラム】論理至上主義を乗り越えて:律法から福音への転換

 僕は、幼少期の頃、他の子供たちと同様、第二次世界大戦に関する教育を受けた。空襲や特攻、原爆で死んで行った人達の無惨な情景を写真などで見た僕は、とてつもない怒りが湧き上がった。僕は、戦争に対する怒りを誰にぶつけるべきか分からなかった。戦争の発生機序を知らなかったからだ。その為、ひとまずは、アメリカ兵に向けられた。日本人を殺したからだ。

 しかし、徐々に戦争の原因が明らかになる。聞けば、日本人自らが、アメリカとの開戦を高らかに叫び、皆が同調し騒ぎ立て、多くの人を死に追いやったという。僕はこう思った。同じような事が起きたら僕はどうすればいいのか。無論、殺される。僕は殺されたくない。

 当時、アメリカとの開戦の原因は、僕の頭の中で、このように解釈された。一つは、論理的思考力の欠如と、知的誠実さの欠如だ。アメリカは僕が子供の時に、既に世界の大国だった。昔だってそうだっただろう。勝てる訳がない。実際、当時の知的階級は勝つ見込みがない事を理解していた。理性的に、論理的に考えれば負ける戦争を、感情論と情動で推し進めた訳だ。つまり、僕の怒りの対象は感情論に向けられた。感情論を使う奴らがこぞって日本人を死に追いやった。感情論は人殺しだ。

 論理的思考への崇拝と、他の徹底的排除が始まった。僕のもっとも毛嫌いするのは、議論の放棄になった。なぜなら、論理的な答えを、感情的な理由で拒絶するのは、理性的に戦争に反対した人々を蹴散らし、開戦を騒ぎ立てた当時の日本人と重なるからだ。論理を放棄する態度、これによってあらゆる間違いが生まれる。一つの間違いも許してはいけない。なぜなら、一つの間違いが通ったというのは、戦争でも全く同じ事だからだ。一つでも間違いを許す事を許せば、戦争が起きる。

 論理を放棄する人間は、最終的には巡り巡って僕を戦争に連れて行く。議論を放棄する人間は、もっとも卑怯で、人間に相応しくない。なぜなら人殺しだからだ。戦争という話だけに限らない。あらゆる面で、論理の放棄は災害を産む。指摘されたら、間違いを認めるならいい。言語化し、論理で反論を行わない癖して、持論を撤回しなかったり、挙句の果てには勝った気になっている人間。こういう人間は、将来的に人殺しに変貌するという点で、人殺しと同じだ。

 無論、戦争の原因を、理性の放棄に還元するのは、本質的ではあるが、細かい議論は無視している。いくら人間の感情論を非難しても、完全に排除するのは不可能という指摘もあるだろう。ただ、僕は常に、論理に基づく対話を行うのが、人殺しに加担しない為の、最低限の誠実さだと思っていた。僕が驚いたのは、その誠実さを理解していないクズのような人間だらけだったという事だ。

 彼らに、この理屈を説明すると、殆どの人間は反論できない。それはそうだ。論理的な対話が重要だという話、それを放棄するのは戦争に繋がるという話、どちらも反論の余地がない。論理を放棄して良い事なんて一つもないのに、思考を辞める人間は卑怯でクズである。これも事実だ。僕が指摘される問題点は、その指摘によって私は嫌な気持ちになったという事だけ。しかし、僕からすれば、このような人間たちは潜在的な加害者である。

 このようにして、僕は自ら彼らに嫌悪感を持ち、彼らを尽く蔑視した。僕は後に、ASDという診断名が着いたが、それは誇りだった。それは、論理的な思考を何より重要視する人間達の得られる称号であり、むしろ選民であった。ひょっとしたら、多くのASDは論理的に「なってしまっている」のかもしれないが、僕は少なくとも信念を持っていた。

 さて、こうした信念が生き辛さを生むのは当然の事なのだが、それにしても、未だにこの考えは影響が残っている。しかし、今ではだいぶ考え方が変わった。では、何が変わったかといえば、端的に言って許した事だ。論理的思考の放棄は、いわゆる原罪である。その罪が、仮に人殺しレベルに重いのだとしても、我々は人殺しを許すべきだ、となったのだ。

 恐らく、彼らは、論理的思考の放棄が原罪と言われても、理解する事もないだろう。罪を自覚しないのもまた罪だ。と、僕は彼らを非難した。僕は、言ってしまえば、自力宗の罠の中にあった。自分が常に論理(=律法)を守る事で、自分は救われようとしたのだ。これがパリサイ人の罪である。

 厳格にルールを守ってきた主体として、未だに僕は論理的思考を好む。ただ、他者に厳格さを求めるのは基本的に放棄した。それは、因果律はもっと複雑だ、というのを理解したのもあるし、単純に、僕は思い出したのだ。僕は、人間が、ひいては皆が大好きなので、戦争をとてつもなく憎んだ。愛と正義は本来一つのものだったが、僕は正義に大きく傾いた。

 しかし、正義と愛との折衷がもっとも重要なのだ、と今では思う。愛とは、許すことだ。もう理解できると思うが、これが旧約から新訳、律法から福音への転換である。これに基づいて、日々を生きる上で、今はとても幸福な日々を送っている。ASDという属性にあまりネガティブな印象がない事には変わりなく、人間関係も身近な所では特に問題も起きていない。

 ただ、僕は時々思う。正義と愛とは本来一つなのに、皆それを忘れてしまったのではないか?と。愛がない人間は正義を持てない。旧約の、裁く神が愛の神だというのは、実はそういう事だ。それを知らしめるキリストという仲介者のように、僕は、正義を信じる人間の背後にある、愛を汲み取る努力を怠らずに生きていきたい、と思う。

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抜こう作用
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