【コラム】「神がいるなら悪はなぜ存在する?(神は存在しない)」を論破したアウグスティヌス【連載1回目:2024/05/22】
著者プロフィール:
抜こう作用:元オンラインゲーマー、人狼Jというゲームで活動。人狼ゲームの戦術論をnoteに投稿したのがきっかけで、執筆活動を始める。月15冊程度本を読む読書家。書評、コラムなどをnoteに投稿。独特の筆致、アーティスティックな記号論理、衒学趣味が持ち味。大学生。ASD。IQ117。
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アウグスティヌスの「告白」を読んでいた。キリストは真理である。真理である故に、それについてくどくどと書かれた書物は退屈である。しかし、面白い記述が無い訳ではない。例えば、神義論について言及した箇所である。
つまり、悪というのは、単なる善の欠如であって、存在しない。よって、「神が善なのに、なぜ神が産んだ世界に悪があるのか」という疑問は解消される。なぜなら、「世界に悪はない」から。見事な記号論理的論駁である。この、論法の美しさについては一旦置いておいて、考えてみよう。
アウグスティヌスの論法によれば、例えば、十戒の違反は悪ではない。善の欠如である。よって、この世界は善に満ち溢れている。「殺してはならない」を破るのも、善の欠如であって、戦争も悪ではない。それは、単に善が欠如した状況である。
こうやって書くと、この論法は明らかに間違っているように思える。戦争は悪の結果とみなされるからだ。しかし、本当に、戦争は、指導者の殺戮衝動やサディズムを原因としているのだろうか。私の答えでは、むしろ力関係における均衡が崩れるなど、ある意味で必然的に引き起こされるのが戦争だという風に捉えられる。全ての人は、その人の中の善に向かって動いているのであると言う事も出来るだろう。
少なくとも、こういった観点は、神義論において1つの正当な解答になっているという事だ。しかし、もしこのような立場を取るなら、即座に万人救済主義という立場に立たなければ矛盾している。なぜ、悪でないものが、地獄に落ちるのか。単に善の欠如といっても、総合的に捉えれば、その人が「善」である場面はあったのだから、合算してプラスになり、単純に考えれば天国に行けそうなものである。
しかし、これには自由意志論で応答する。神は人間に自由意志を与え、過ちを犯す可能性のある中で、正しく生きる事を価値のある事としているのだ。よって、自由意志に基づき、悪(善の欠如)を犯したものは、地獄に行く。…ということである。個人的には、ゲヘナを地獄と同義で使っていたのは、イエスもそうなのだから、地獄がないという論法は苦しいように感じる(実際にあるかないかはさておき)。
神の義の前で裁かれるべき悪人はいるのかもしれない。ただ、なんにせよ可哀想な話である。とはいえ、これはオーソドックスな神義論であり、予定論などよりも余程、「救いのある」話なように思う。ひとまず、インターネットでこの問題について問われたら、「悪は善の欠如であって、悪は存在しない」という論法で、ディベートしてみたい。