「神は存在する」の哲学的証明【X評論】
X評論【2025/01/01】
あけおめ
ある特定の認識論(恐らくカント?)と、純粋概念としての神を組み合わせると、「神は存在する」の言明は、無謬になるように思う。
— 抜こう作用 (@B8_EX3THMKZ) January 1, 2025
この場合、「神は存在しない」と言っている人が想定している「神」が、単に想像上のもので、神概念を正しく認識出来ていないという説になるのではないか。
つまり、客観的実在と、内部の観念という区分けがない哲学(もしくは客観的実在へとアクセスできない哲学)において、「神は存在する」という時、外部的な神の存在を主張している訳でない。むしろ、明らかに我々の観念レベルでは神は存在し、従ってそれが重要なポイントで、それが全てだ、という事だ。
客観的実在というものの存在がない、もしくは認識の限界を知っている立場からすれば、むしろ我々の観念が問題になる。我々が持つ観念として、神がいる世界に生きている。つまり、神という概念が組み込まれた世界に生きている。そして、無神論という声明を出したところで、そこに前提とされるのは同じである。
むしろ、ここで言いたいのは、神という概念が単に概念に過ぎない、という指摘が、価値を失うということである。なぜなら、全ては単なる概念以上のものではないからだ。言語において、「神は存在しない」という人が真に言いたいのは、「このような、神は存在しない」という、限定化された神概念への批判である。これに対してのクリティカルな反論として、スピノザの神概念を引き合いに出すことが出来る。即ち、もし、「世界=神」という意味で「神は存在する」と言われた時に、これに対して反論は出来ない。
しかし、それは特異的な言語システムにおける話だ、という反論がある。しかし、むしろ、「神は存在しない」論者の想定する神概念の方が、伝統的な哲学/神学の神に対するイレギュラーである。超越者/無限定者としての神は、確かに汎神的な神にならざるを得ない。しかし、その汎神的な神ですら、「汎神的」と限定されてしまっている。よって、無限定者としての神は、限定者としても想定される事で、本当に超越的となる。しかし/つまり、この限定者としての神のみを捉えて、「神は存在しない」と言明するのは、当然、間違いである。
と、ここまで一つ自分哲学を展開してみた。新年一発目は哲学についての記事を出す事になったか。あけましておめでとうございます。2025年もよろしくお願い致します。
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