失う=はじまり
仕事を失って、毎日の生活を律していたものがなくなってみると、仕事がどんなに生きている喜びや希望を生みだし、諸問題に対応するための気力を支えてくれていたか、よくわかりました。
会社を閉じるのは間違った決断だったかも。ちょっとだけ焦って、そんな後悔もわきました。しかし昨年の年末にはすべての営業を終了し、会社をたたんで休眠にする方向で必要な手続きもすでに開始。どんなに後悔しても、どうあがいても、もう後戻りはできません。
人間の心理とは不思議な物。なすべき仕事がないというだけで、どっと気力が低下してしまいます。気力こそが私の最たる特質だったのに、気力がわかない。何もかもがどうでもいいように思えてしまう投げやりな気分。
心をけん引して前にむかって進めてくれていた力が胡散霧消して消えてしまった感じ。心と体をしっかりとつなぎとめていた重力がなくなってしまった感じ。低迷した精神がふわふわと地面のあたりを浮遊しているようで、頼りなく、迷子になった気分でした。
しかし失うことは始まりでもある。私の人生は終わったわけではない。決して失いっぱなしではない。母との同居は今まで体験したことのない母娘関係のはじまり。介護体験のはじまりでもある。つまり新しい体験がはじまるわけで、そこには必ず新しい世界が拓けるはず。そんな風にも思っていました。なんとか希望をもとうとしていたのです。
幸い、私には時間が残されています。何よりも貴重な時間だけは残されている。仕事を失くしたせいで、まっ平になってしまった平面の時間。私はそこに新しい何かを発見し、新たな何かを組み立てていく。母との同居にはたくさんの発見があるはず。焦る必要はない。急がずにじっくりと時間をかければいい。そんな風にも考えて、なんとかして希望を見出そうとしていました。
母が倒れたのは、私が帰省して同居をはじめた一週間後でした。世話をしてくれる娘が側にいる。長い間がんばってきた母にとって、それが気のゆるみになったのかもしれません。